10月4日は「都市景観の日」だという。なぜこの日なのか。美しい都市が完成したとか、景観を守る法律が制定されたとか、そんな記念日ではなく「都市美」(と=10、し=4、び=日)の語呂合わせだそうだ。
関連行事として、国土交通省関係の団体により毎年「都市景観大賞」が選定されている。昨年度は愛知県の半田、群馬県の草津、信州長野が大賞を受賞した。もし今残っていたら、確実に大賞を受賞したと思われる都市景観がある。「銀座煉瓦街」である。
東京都中央区銀座八丁目に「金春通り煉瓦遺構の碑」がある。銀座金春通会によって平成5年に建てられた。
今は昔の「銀座煉瓦街」の始まりと終わりは、どちらも災害である。始まりは明治五年(1872)2月26日に発生した銀座大火である。新たな街づくりは「不燃」「耐火」を旨として煉瓦建築で進められた。
その終焉は大正十二年(1923)9月1日の関東大震災。マグニチュード7.9の激震により煉瓦街は瓦礫の山と化した。耐火都市であったが耐震都市ではなかった。説明を読んでみよう。
銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。
設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。
この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。
ウォートルスは幕末に来日し、明治新政府のお雇い外国人として建築指導に当たった。彼の建築作品は銀座には残っていないが、大阪にはある。明治四年建築の「泉布観」で、このブログでは「日本の初期コロニアル建築」で紹介した。
日本に二つしかなかった煉瓦街の一つ、丸の内煉瓦街は「三菱一号館」が復元され、今その面影を知る手がかりとなっている。いっぽう銀座煉瓦街は記念碑で想像するだけだ。もう一つの記念碑が銀座一丁目にあるので行ってみよう。
東京都中央区銀座一丁目に「煉瓦銀座之碑」がある。床は発掘された煉瓦をフランス積みで再現している。ガス燈の燈柱は明治七年の実物だそうだ。
碑は由利公正の功績をたたえて建てられたもので、上部の「経綸」は公正の揮毫である。説明を読んでみよう。
明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)銀座は全焼し、延焼築地方面に及び、焼失戸数四千戸と称せらる。
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し、政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。
昭和三十一年四月二日
由利公正は五箇条の御誓文を起草したことでも知られているが、銀座大火当時は東京府知事となっていた。公正は次のように回顧している。三岡丈夫編『由利公正伝』光融館(大正5)より
今度焼けた跡の家は材木で建てゝも煉瓦で建てゝも宜しい訳であるが、どうか煉瓦建築にし度い、それにしては是非政府で御助勢下さならなければならぬ、此輦轂の下(れんこくのもと)の町を造るぢやから、どうか悉皆願ひ度いと、かう大袈裟に持出した。丁度此時はまだ西郷や板垣などが参議で居つて、それは大に面白いといふ様な事で、殊に外国公使等も色々と申したものであるから、直に賛成を得た訳ぢや。
このように公正は、自らが主導して煉瓦造を献策したと言う。ところが当時大蔵大輔であった井上馨は別の証言をしている。大隈重信と伊藤博文と三人で次のように話し合ったという。井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』第二巻 内外書籍(昭和8)より
あの銀座の焼けた時分に、三人言ひ合ふて、是はどうも東京の銀座通りやなどは、将来大変な繁昌をする所だから、此際に銀座の街を拡げやうぢやないかと云ふ論を相談して、それは宜からう。それで政府に百万円といふ者を元金にして立てて、さうして之を端から建てて、まだ東京全体の市区改正とは言はぬけれども…改正をして行かにやいかぬと云ふ。それから同意になつて夫を提出した所が、とう/\太政官の方でも認可した。さうすると東京府知事が、あんな馬鹿な広い街を造つてどうする積りかと云つて、大変反対を受けた事がある。世外侯事歴維新財政談
このように、由利府知事は広々とした街づくりに反対したというのだ。煉瓦建築については、『世外井上公伝』は次のように説明する。
この三人の会合で案を立て、焼跡の処分を協議したのであるが、正院の示達に依り、二月三十日に大蔵省から東京府へ、「府下家屋建築ノ儀ハ、火災ヲ可免ノ為メ、追々一般錬火石等ヲ以テ取建候様可致御評決ニ相成候條、其方法見込相立、大蔵省ト可打合事。」と通達した。
こちらでは大蔵省が主導して煉瓦造を進めたとしている。この証言の食い違いは、由利・西郷・板垣 VS 井上・大隈・伊藤という構図に見える。どちらが強いとも決めかねる錚々たる面々だ。だが、都市建設には巨額の予算が必要なことを考えると、大蔵大輔の井上馨が動かねば、何も始まらないのではなかったか。
由利公正と井上馨がそれぞれに誇らしく語る銀座煉瓦街も今はない。ただ、維新の元勲が街づくりに明確なビジョンを持ち、積極果断な処置をとったことは記憶されてよいだろう。由利府知事ならぬ百合子都知事は築地再開発をどのように進めるのだろうか。
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