蛇口をひねると当たり前のように水が出てくる生活に慣れていると、水のありがたさをすっかり忘れてしまう。この冬は例年にない厳しい寒さで、水道管が凍結して大変だったようだ。
歴史上、上水道の普及には大きな契機が二つあった。一つは近世初期の城下町の建設、もう一つは近代の伝染病流行である。今日のような上下水道普及の背景には、コレラや腸チフス等を防ぐという喫緊の課題があった。では、近世初期に上水道が整備されたのはなぜだろうか。備後福山の例を見ることにしよう。
福山市北吉津町一丁目と吉津町の境に「御手洗川の上水道施設」がある。
近世上水道の貴重な遺構で、これは取水口である。ここから暗渠となって各戸に給水された。詳しく分かりやすい説明板があるので、読んでみよう。
福山の城下町は、海を埋め立てて造られたため、塩分を含まない良質な井戸水を手に入れることが困難でした。このため、初代福山藩主、水野勝成は築城とともに上水道の整備に力を注ぎました。
芦田川から吉津川に引き込まれた水はどんどん池(蓮池)に蓄えられ、上水道を通して城下町に運ばれて飲料水として利用されたのです。
この石組みの扉門は、かつては御手洗川から上水を取るための重要な取水口でした。取水口から取り入れられた上水は、古吉津町に埋設された土管を通して各寺院や民家に給水されました。この上水道施設は城下町の発展に大きな役割を果たしてきた貴重な遺構といえます。
宮川町内会
中世の山城は近世になって山を下り、平山城や平城となった。水野勝成は初め内陸の神辺城に入ったものの、現在の地に、西国の要にふさわしい近世城郭と城下町を建設した。この時、整備されたのが「福山上水」である。
福山には幸い芦田川という大河がある。ここから城下町へ導水するのが吉津川であり、水はどんどん池に蓄えられた。その池を訪ねてみよう。
福山市西町三丁目、木之庄町一丁目の蓮池は通称「どんどん池」という。ここは近世上水道の貯水池であった。
福山の上水道は、福山市上下水道局のホームページによれば、神田上水、近江八幡水道、赤穂水道、中津水道に次ぐ全国で5番目という歴史を誇るとのことだ。池のほとりの蓮池記念碑を読んでみよう。
一六一九年(元和五年)戦国時代の勇将水野日向守勝成は備後福山藩主として移封を命じられ、居城福山城の築造、その城下町の形成に大いなる力をつくした。特に壮麗なる天守閣の建築、広大な干拓地の造成と共に城下をめぐらす水源整備の事業は、わが国最古の水道として江戸神田・玉川上水と共に高く評価されている。上流の高崎に取水口を設け、本庄町二股よりこの蓮池に水を導き、総延長二千八百米に及ぶ水路は年月を経てなお大干ばつにも枯れることなく近代水道の敷設されるまで広い地域の農地をうるおし人々の生活飲料水として豊かな恵みをもたらしてきた。
福山上水は「わが国最古」とまでは言えなくとも、神田上水や赤穂水道と並んで「日本三大上水道」(赤穂市教育委員会事務局生涯学習課文化財係ホームページ)と呼ばれるくらい整備されていた。水があっての生活である。民政の安定を第一とした水野勝成は政治家の亀鑑というべき武将であった。