いよいよ明日は平昌五輪の開会式だ。出席するVIPとして大注目なのが、キム委員長の実妹、キム・ヨジョン(金与正)さんである。美女応援団もそうだが、北朝鮮の融和姿勢を素直に受け入れていいのか迷うところだ。
同じ民族でさえ難しい外国使節の受入れである。古代日本に「渤海(ぼっかい)」という国から、日本海を渡ってやってきた使節には、どのように対応したのだろうか。本日はその迎賓館の跡を訪ねたのでレポートする。
敦賀市松島町の「気比の松原」近くに「神明社」が鎮座する。
よくありがちな神社に見えて、古代史に登場する重要な場所らしい。宝暦十一年(1761)完成の『気比宮社記』第二巻宮社神伝部下「松原神明社」の項には、次のような記述がある。
相伝云上古高麗渤海国人令饗応之客舎旧地也
言い伝えによれば、そのむかし、高麗や渤海の使節を饗応する迎賓館があった場所である。その迎賓館は「松原客館」とも「松原駅館」とも呼ばれている。本格的な迎賓館は平安京の「鴻臚館(こうろかん)」だから、簡便な滞在施設だったのかもしれない。
全35回という渤海使のうち、今回は33次にあたる延喜十九年(919)の使節の受入れについて、『扶桑略記』巻廿四をもとに紹介する。
延喜十九年11月18日条
大納言藤原朝臣(道明)令尹文奏自若狭守尹衡許告来。渤海客徒来着之由。
大納言藤原道明は、若狭守藤原尹衡からの「渤海使が来着した」との報告を、蔵人藤原尹文に奏上させた。
21日条
客徒牒状云。当丹生浦海中浮居云々。而無着岸之由。又牒中雖載人数及有来着由。未有子細状。令蔵人仲連以若狭国解文。奉覧於六条院(宇多)。
渤海使の書状によれば、船は若狭国丹生浦(福井県三方郡美浜町丹生)の沖にとどまり、着岸していないようだ。また、書状には使節団の人数や来着のことが記載されているが、詳細は不明である。蔵人良岑仲連に命じて、若狭国からの報告書を宇多法皇にご覧いただいた。
25日条
右大臣(忠平)奏渤海客事所定行事。可遷若狭安置越前。及可令入京事。
右大臣藤原忠平は、規定により渤海使を若狭国から越前国へ移して迎え、その後に都に入らせるよう奏上した。
この間、来航の理由を問う「存問使」と通訳の「通事」、酒を造る「酒部」、饗宴を盛り上げる「舞人」らを選定した。
12月24日条
右大臣令邦基朝臣奏若狭国申遷送越前国松原駅館客徒一百五人。并随身雑物等解文。客状中云。遷送松原駅館而閉封門戸。行事官人等無人。況敷設薪炭更無儲備者。仰宜令切責越前国。急令安置供給者。仍即令仰大臣。以越前掾維明。便可為蕃客行事。国司申。以大臣書状可仰彼国守延年也。
右大臣藤原忠平が、若狭国が渤海使105人ならびにお供や持ち物を越前国の松原駅館に移したとの報告を、左中弁藤原邦基に奏上させた。渤海使の書状によれば「松原駅館に移ったものの、門は閉ざされ担当の役人はおらず、ましてや薪炭の準備もまったくない」ということだ。天皇は「急ぎ改善するよう越前国に強く言え」と大臣に指示させた。大臣は、越前掾某維明を一時的に外国使節接待担当国司とするよう、越前守某延年に書状で伝えた。
めったにない使節受入れなので、越前国はすっかり油断していたようだ。てんやわんやしながら、渤海とは長く友好関係を保つことができた。日本と渤海の両国にとっては、唐を牽制する意味合いもあった。その一方で我が国の遣唐使も続けられていた。古代にアジア諸国と友好関係にあったことは、特に記憶しておくべきだろう。
外交カードは多い方がいい。韓国が北朝鮮の融和姿勢に乗るように見せるのも、自国の安全を保持する戦略に違いない。圧力一辺倒の結果、何かあれば韓国に被害が及ぶからだ。北朝鮮に対し、我が国はいくつの外交カードを持っているのか。トランプのカードを引いたら、ジョーカーだったなんて、シャレにもならない。
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