今春また一つ、鉄道路線がその役目を終える。JR西日本の三江線である。幾度も災害から復旧し、何度も利用促進のキャンペーンが行われたが、存続はかなわなかった。今も大雪のため三次・浜原間で運行が休止されているという。『地方消滅』という本が指摘したとおりに、世の中は進んでいるかのように思える。
鉄道路線の廃止は、決して新しい問題ではない。鉄道のライバルはバスだ。道路ができバスさえ走れば、鉄道を利用せずとも目的地に行くことができる。今回レポートするのも、バスに敗れた鉄道の一つである。
福山市西桜町一丁目に「鞆鉄道野上駅跡」がある。福山駅と鞆駅を結んだ私鉄で、矢印が鞆駅方面である。
写真左手の金物屋さんに説明板がある。読んでみよう。
大正2年11月17日(1913年)鞆軽便鉄道、鞆⇔野上駅間が開通致しました。水吞から田尻に至る三分坂であえぎ、あえぎ登った思い出深いラッキョウ汽車の野上駅はこの場所付近にありました。その後三之丸駅、次いで山陽線福山駅構内へと延長され、昭和29年3月(1954年)廃線になりました。
大正二年に軽便鉄道として開業した際には、野上駅が福山側の起点だった。福山駅までは少々歩かねばならない。翌年に福山町駅(後の三之丸駅)まで延長され、昭和六年に福山駅乗り入れが実現した。「ラッキョウ汽車」というのは、ドイツのアルノルド・ユンク社製の蒸気機関車で、煙突がラッキョのような形をしていることに由来する。軌間762mmの小さな鉄道だった。
鉄道の発起人となったのは井上角五郎で、地元福山に生まれ、福澤諭吉の門下生となり、朝鮮でハングルの普及に尽力し、衆議院議員を長く務め、室蘭の日本製鋼所の創立者ともなった大人物である。初代社長は鞆の資産家、林半助が務めた。
旅客数のピークは、昭和22年の174万人であった。鞆の浦は古代より栄えた港町で、今も風光明媚な観光名所として知られている。なのになぜ、鉄道は廃止されることになったのだろうか。福山駅開業125周年を記念した展覧会「ひろしま鉄道ヒストリア」(広島県立歴史博物館)の図録では、次のように説明されている。
鞆鉄道の貨物取扱量は昭和19年(1944)以降急激に減少し、旅客数もバスとの競合で昭和24年(1949)以降急減しました。このような利用減に加え戦後のインフレなどで営業収支が悪化したため、昭和29年(1954)に鞆鉄道は営業を停止することになりました。
トモテツバスは福山の主要なバス路線の一つだが、会社名は今も「鞆鉄道株式会社」である。
野上駅を出た汽車はここを通って鞆の浦に向かう。
普通の道にしか見えないが、航空写真でたどれば鉄道路線らしい緩やかなカーブを確認できる。JR三江線の跡地はどうなるのだろうか。並行する道路があるので、道路になることはなさそうだ。観光資源としての活用を検討する動きもあるという。
鞆鉄道のサヨナラ列車は、蒸気機関車が大きな花輪をつけ、沿線の人々に別れを告げた。三江線はどのようなラストランを迎えるのだろうか。せめて、サヨナラ列車が全線を走破できるよう、水ぬるむ春を待つのみである。
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