戦跡を保存するのは、戦争をロマン主義的な悲劇として見るのではなく、死と隣り合わせのリアリティを感じてもらいたいからである。太平洋戦争は戦後73年を経たとはいえ、その悲惨さは各地に残る戦跡で知ることができる。このブログでも「機銃掃射による弾痕が残る塀」を紹介した。
今年150年となる戊辰戦争はどうだろうか。今日は、弾痕を残しながらも成長を続ける生ける戦跡を紹介しよう。
日光市瀬川に「砲弾打込杉」がある。このあたりは「日光杉並木街道附並木寄進碑」として特別史跡と特別天然記念物に指定され、また「世界最長の並木道」としてギネスブックにも認定されている。それゆえか、あるいは積み重なった歳月のせいか、荘厳な雰囲気さえ漂っている。
写真は20年くらい前だが、この杉の木は今も健在である。徳川幕府が特に大切にしてきた日光へ向かう道に、このような弾痕が残っているとは。戊辰戦争とは何かを如実に物語っている。近くに日光市による小さな説明板があるので読んでみよう。
附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当って破烈したあとである。
「破烈」は「破裂」だろうが、烈々とした雰囲気はよく伝わる。弾丸は右から入って左へ抜けたように見える。日光に拠る幕府軍との前哨戦というが、もう少し詳しく調べてみよう。
時は慶応四年(1868)4月11日、江戸城はついに開城した。これを見届けた大鳥圭介は、旧幕府兵とともに日光を目指して進発した。一進一退しつつも日光にたどりついたのは25日。
大鳥軍を追うのは、板垣退助率いる土佐藩迅衝隊(じんしょうたい)の新政府軍である。両軍は今市宿の掌握をめぐって激しく衝突する。今市市教育委員会『杉並木物語』を読んでみよう。
慶応四年(一八六八)四月二十九日、今市宿を襲った幕軍は官軍の反撃にあい後退、北村砲隊を先陣とする官軍の追撃をうけ、瀬川十文字地内で戦う。
北村砲隊とは迅衝隊士、北村重頼の部隊である。北村は戊辰戦争凱旋後に陸軍で活躍するが、若くして亡くなってしまう。瀬川十文字の戦いのあと、大鳥軍は日光から退去していく。もっともこれには、聖地日光を守るよう説得した板垣退助の功績が大きいようだ。
この戦いのようすを当時の記録で見ることにしよう。日光奉行同心の平賀嘉久治が記した「日光附近戦争及雑書記」(平賀イク家文書・栃木県文書館)には、次のように記されている。(引用元は今市市歴史民俗資料館『写真集戊辰戦争日光山麓の戦い』昭和63年)
四月廿九日、瀬川村字十文字と申所江関門出来に、三拾人余出張いたし候処、今市宿より官軍勢土州人数百五六拾人押来り、大砲小砲打掛候得ハ、東軍方ニ而小筒を以打合、関門之土手内ニ人数有之と見て、官軍勢岡道江上り馬乗ニ而後へ廻らんとする時、東軍勢木陰よりねらい打に馬乗弐騎打落シ候故、其儘人数引上ケ互ニ退陣ス、東軍戦死壱人、手負三人、官軍方戦死四人、手負六人とかや
旧幕府軍が新政府軍を狙い撃ちしたようすが活写されている。砲弾打込杉は被弾しても生き続けてきたが、人間ならひとたまりもなかっただろう。それが戦争のリアルである。
徳川が実現した天下泰平の世を「パクス・トクガワーナ」と呼ぶ。日光はその徳川の聖地だった。それゆえ砲弾打込杉は、パクス・トクガワーナの終焉を象徴しているように思えてならない。