今年は改元が予定され、何だかお祭り前のようなワクワク感がある。一昨年(2017)は養老改元1300年に当たり、岐阜の養老町が大いに盛り上がった。養老公園で「改元の宴」という酒飲みイベントがあると聞き、私もお祝いに駆け付けた。
広い公園を眺めながら木枡でいただく酒は格別だったが、養老と酒との深い関係を考えれば、「呑むばぁしょうちゃおえん。親孝行せんと」と思うのであった。
岐阜県養老郡養老町鷲巣(わしのす)に「源丞内(げんじょうない)の像」がある。昭和14年の建立である。ちなみに背景の「きびようかん」は養老の銘菓で、お土産にぜひとお勧めしたい。
像は朴訥な感じの若者で、瓢を手にしている。その瓢に入っているのは…。源丞内の物語は隣の説明板に記されているが、ここでは鎌倉中期の説話集『十訓抄』(第六-十八)を読むこととしよう。
昔元正天皇の御時、美濃国に貧しく賤しき男ありけるが、老いたる父を持ちたり。此の男、山の草木を取りて、其の直(あたひ)を得て父を養ひけり。この父、朝夕あながちに酒を愛しほしがる。これによりて、男なりひさごといふ物を腰につけて、酒を沽(う)る家に行きて、常にこれを乞ひて父を養ふ。
あるとき山に入りて、薪を取らんとするに、苔ふかき石にすべりて、うつぶしにまろびたりけるに、酒の香しければ、思はずにあやしくて、そのあたりを見るに、石の中より水流れ出づることあり。其の色酒に似たり。汲みてなむるにめでたき酒なり。うれしく覚えて、その後日々にこれを汲みて、あくまで父を養ふ。
時に帝この事をきこしめして、霊亀三年九月に、その所へ行幸ありて御覧じけり。これ即ち至孝の故に、天神地祇あはれみて、その徳をあらはすと感ぜさせ給ひて、後に美濃守になされにけり。
その酒の出づる所をば、養老の滝とぞ申す。且はこれによりて、同十一月に、年号を養老と改められける。
このテキストには孝子「源丞内」の名前はない。源丞内の登場は、養老寺の縁起が語られ始めた中世末期だと考えられる。ただし、この縁起では老父ではなく老母を養うこととなっている。新旧の伝説が融合して、源丞内が老父を養う物語となったのであろう。
養老町養老公園の養老寺境内に「養老孝子 源丞内の墓」がある。
「孝子供養塔」と刻まれ、それほど古いようには見えない。それでも境内に墓があることで、養老寺の縁起は真実味を帯びてくる。
養老町養老公園の養老神社境内に「菊水霊泉」がある。孝子が汲んだのはこの水なのか。清冽な水は、少し下で今も汲むことができる。
泉の前に、頼山陽と並び称される梁川星巌(やながわせいがん)の漢詩碑がある。星巌は美濃の出身である。
霊亀帝古跡
澗邊芳草遥簪挺
巌畔鳴泉玉佩分
曾是六龍巡幸地
満山佳氣尚氤氳
見たこともない漢字が使われ、ずいぶん難解に思える。石碑をよく見ると送り仮名が刻まれている。説明板を参考にしながら訓読すると、次のようになる。
澗辺(かんぺん)の芳草(ほうそう)、遥簪(ようしん)を挺(ぬきん)ず
巌畔(がんぱん)の鳴泉(めいせん)、玉佩(ぎょくはい)分かる
曾(かつ)て是れ六龍(ろくりょう)、巡幸の地
満山(まんざん)の佳気(かき)、尚ほ氤氳(いんうん)
谷川に香るばかりの若草が、かんざしのように生えている。岩間から湧き出る水は、役人の装身具のようにコポコポと音を立てている。ここは、かつて元正天皇がお出ましになった地である。山全体がめでたく生気に満ちあふれている。
霊亀元年に即位した元正女帝は、霊亀三年を養老元年と改めた。その時の詔にある「醴泉は美泉なり。以て老を養ふべし。」が、養老孝子伝説の源流である。
美濃の美しい泉へ元正女帝が行幸された。感激した女帝は「養老」への改元と高齢者福祉の増進を指示した。これをもとにした伝説を『十訓抄』が紹介し、養老寺は孝子を「源丞内」と名付けたのだろう。
今も変わらず美しい泉は、旅人の渇きを癒し心を潤している。養老駅からここまで坂道が続き、養老の滝へはさらに登らねばならない。菊水霊泉は一息つくのにちょうどいい。霊水が本当にお酒だったら、この先の坂道なんぞ歩くことができなくなくなるだろう。