平成ひとけたの頃、開業間もない広島の基町クレドに行って、洗練された都市空間とはこういうものかと、つくづく感心した。さすがは中四国の地方中枢都市である。どこまでも市街地が続く広島平野は、地理の時間に習った「三角州」の典型だ。いったい、いつごろに形成されたのだろうか。
広島市中区中町に「旧国泰寺愛宕池」があり、市の史跡に指定されている。
国泰寺は広島藩主浅野家の菩提寺として栄えた名刹である。昭和53年に西区己斐上三丁目に移転する以前にここにあった。広島市教育委員会の説明板には、次のように説明されている。
この辺りは、旧国泰寺の境内にあたります。この池は、ここに国泰寺の鎮守愛宕社があったことから愛宕池と呼ばれるようになったものです。愛宕社は、国泰寺開基当時(1601年)から存在しており、この池は当時のおもかげを残しているもので、城下町形成初期の遺構として貴重なものです。
また、この池は、白神社(しらかみしゃ)の境内に連らなる岩礁の一部を利用して池としたもので、城下町形成初期の頃の海岸線は、この付近であったと推定され、三角州形成の一つの里程標としても意味深いものです。
驚くべきことに、今は市街地の中心であるこの場所に、400年前には海岸線があったという。太田川が運んだ土砂によって三角州が発達し、今の広島平野を形成した。
広島市中区中町に「白神社の岩礁」がある。市の史跡及び天然記念物に指定されている。被爆樹木のクスノキもある。
愛宕池の岩とは、ひと続きになっているらしい。昭和60年3月という前時代の説明板で広島市教育委員会は、次のように説明している。
この岩礁は、広島城築城当時(1591年)海岸線であったこの付近に露出していたものです。又、国泰寺愛宕池の岩と一体のもので、このような岩礁が市街地に残っていることは、三角州発達の歴史をたどるうえで意味深いものです。
なお、かって、この岩礁上に白紙を立てて航行の目印としたと伝えられています。
時代をさらにさかのぼろう。中世紀行文学の名作『道ゆきぶり』で今川了俊は、広島市のあたりを次のように描写している。
晦日は、海田とかやいふ浦に付きぬ。南には深山重なりたり。麓に入海の干潟はるばると見え、北の山際に、所々家あり。ここに廿日ばかりとどまりて、長月の十九日の在曙(ありあけ)の月に出でて、潮干(しほひ)の浜を行くほど、なにとなくおもしろし。さて佐西の浦に付きぬ。
応安四年(1371)八月末日、海田(今の安芸郡海田町)という浦に着いた。南には深い山が連なっている。麓に入り江の干潟が遥かに広がり、北の山際には所々に家がある。ここに二十日ほど滞在して、九月十九日の夜明けに出発して、潮の引いた浜辺を進んでいると、古人もこの時期の月を愛でたことが思い起こされて、なんとなく趣深い。さて、佐西(今の廿日市市)の浦に着いた。
海田町と廿日市市の間にあるのが広島市だから、「潮干(しほひ)の浜を行くほど、なにとなくおもしろし」は広島湾のようすを表しているのだろう。この時代から徐々に三角州は発達してきたのだ。都会の風景の中で気付きにくいが、この岩礁は確かに古い時代の風景の名残りだ。広島の発展をずっと見てきたし、これからも見続けるのである。
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