古代の石造物には、ときどき意味不明なものがある。飛鳥の石造物はその代表例で、20個ほどある奇妙な物体は散策スポットになっている。よく分からないことはすべて宇宙人のせいにしたり、オーパーツだと珍しがったりすることがあるが、本日紹介するのは宮内庁が管理している謎の石造物だ。宇宙人は関与していない。
鳥取市国府町岡益に「岡益の石堂」がある。宮内庁が「宇倍野陵墓参考地」として管理している。
陵墓参考地は古墳が指定されることが多いが、ここは謎の石造物である。こんもりした塚の上に五輪塔があるなら分かるが、この石組はビヨンドザ理解である。ここは説明板に教えてもらおう。
岡益(おかます)の石堂(いしんどう)
(安徳天皇御陵参考地)
6m四方の基壇の上に厚さ40cm前後の壁石でかこった石室が造られ、石室の中央に柱礎があり、その上にエンタシス(胴張り)のある円柱が建っている。この上にマス形をした中台が2個のっている。
中台の下の方には忍冬唐草文(にんどうからくさもん)が浮彫されている。この文様は中国の雲崗石窟寺院などのものによく似ており、このことが大陸的色彩が強いとされるゆえんである。一般に7世紀ごろと考えられている。明治29年に安徳天皇御陵参考地に指定され、現在は宮内庁で管理されている。
エンタシスだとか忍冬唐草文だとか、シルクロードの香りが漂ってくる。喜多郎のシンセサイザーさえ聞こえてきそうだ。スケール感に圧倒され、ますます謎が深まっていく。7世紀の建立のようだが、12世紀の安徳天皇の陵墓参考地とされている。
安徳天皇は関係ないように思えるが、この石堂には天皇とのゆかりが、次のように語り伝えられているのだ。『鳥取県史蹟名勝案内』(鳥取県内務部、昭和9)「安徳天皇御陵墓参考地」より
此の地に伝ふる所の旧記に依れば、壇の浦の役安徳天皇は二位尼及二、三の臣下に護せられて小舟に乗じ、風涛に任かせ隠岐国岩崎の浦に漂着せしも、浪高くして上るを得ず、転んじて賀露の港に着す。偶々岡益光良院の住職宗源和向其所を過ぎ、帝を見て尋常人に非ざるを察し其の寺に迎ふ。既にして世の視目を怖れ給ひ、侍臣と相諮って假皇居を私都谷の瓢箪山に設け帝を移し奉り、時運の転回を待ち給ふ。然るに文治三年八月十三日帝は二位尼等に伴はれて荒船の山奥に遊ばれしが、遂に不予となり崩御遊ばさる、御年十歳なり。宗源和尚は御遺骸を光良院に迎へ、本寺般若院の長通律師を講じて御弔祭の導師とし、尊骸を寺内に納む、石堂即ち此なりと。
本ブログ「安徳天皇御陵墓(因幡姫路編)」でも同内容の伝説を紹介した。異なるのは御遺骸が葬られた場所だ。住み慣れた姫路の里か、宗源和尚ゆかりの岡益の石堂か。姫路の里は無指定で、岡益の石堂は宮内庁指定という、この差は何なのか。しかも宮内庁が指定する安徳天皇陵墓参考地は、高知県越知町、長崎県対馬市、熊本県宇土市にもある。山口県下関市には、赤間神宮境内に公式な陵墓と北部の豊田湖近くに陵墓参考地がある。
これは、どういうことなのか。安徳天皇らしき子どもが各地で目撃されていたのか。まさか宇宙人の仕業ではあるまい。おそらく海に沈んだ気の毒すぎる幼帝を哀れに思った人々が、少しでも長く生き、少しでも安らかな場所に葬られたと語り伝えたのだろう。謎めく石堂も陵墓にふさわしいのでは。そんな気がしてきた。
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