魑魅魍魎が跋扈するかのような『帝都物語』の世界は面白かった。すべてが合理的に説明できそうな現代社会は意外にも、不可思議な力や遠い過去からの因縁によって動かされているらしい。特に嶋田久作の加藤保憲のキャラは強烈で、大日本帝国のオカルティズムを体現しているかのようであった。
この物語に「ドーマンセーマン」という紋様が登場する。魔除けの呪符として知られる五芒星である。その奇妙な名前は安倍晴明とライバル蘆屋道満を表すともいわれる。本日は、二人の陰陽師ゆかりの地を訪ねたのでレポートする。
兵庫県佐用郡佐用町江川地域は「陰陽師の里」として知られ、実際に行ってみると、写真のような絵をいくつか見ることができる。
佐用町大木谷に「いぶし清明塚宝篋印塔」がある。町指定文化財である。
端正な印象の宝篋印塔である。どのような由来があるのか。手前の説明板を読んでみよう。
この見晴らしの良い小広場に方形の壇を石垣で築き、その上に建てられている。平安時代中期の陰陽家・安倍晴明の塚と伝えられ、西方の乙大木谷の丘には、晴明と法力を争ったという同じ陰陽家の芦屋道満塚(寛政9年(1797)再建の宝篋印塔)があり、対をなしている。
晴明の塚は、花崗岩製で本体の高さ120.4cm、上部反花座(かえりはなざ)つき基壇を含めて総高133.3cm、ほぼ完全な形であり姿形も良い。笠は6段式で塔身には金剛界四仏の種子(しゅじ)を彫るが、月輪(がちりん)はない。基礎は四面とも格狭間(こうざま)を刻み、南面した左束(つか)に「イブし」の刻印があり同地の古い地名である猪伏(いぶし)をあらわしている。
様式や手法から室町時代前期に造られたと思われる。
宝篋印塔の説明は詳しく価値があることが分かるが、清明の伝説らしきことが一切書かれていない。そこで、大正十五年の『佐用郡誌』を調べてみた。同書第六篇史蹟名勝第三章古墳及塚の「江川村 阿部清明塚」(ママ)の項には、次のように記されている。
是は道満ありし為に設立せしものなるや別に詳記すべきものなし。
まず乙大木谷にライバル蘆屋道満の塚が建立された。道満の塚があるなら清明の塚もなくてはバランスが悪かろう。そう思ったのか谷を隔てて甲大木谷に「いぶし清明塚宝篋印塔」が建立された。清明がやって来たとか、そんな話があるわけではなさそうだ。
同じく大木谷に「道満宝篋印塔」がある。
隅飾という四隅の突起が開いているので、江戸時代の建立だと分かる。詳しいことを説明板で読んでみよう。
南北にわずか数百メートルを隔てて並び立つ道満塚と晴明塚。古人の崇敬の思いが伝わってくる。
芦屋道満は平安時代陰陽道の大家として安倍晴明と並び称され勢力を二分し、拮抗していたといわれるが、時の権力者・藤原道長を呪詛した咎がによって、この地に流されたと伝えられる。安倍晴明との勢力争いで敗れたことを物語るものであろうか。
道満、晴明とも当時とのかかわりについて歴史的確証はないが、陰陽道家の伝承を持つこの塔は当時の信仰形態をうかがわせるものである。
なお、この宝篋印塔は寛政九年の造立銘をもち、時代の特徴をよく表し、郡内では大型に属する。
なんと、この地に道満が流されたというのだ。しかも、絶大な権力を誇ったあの道長を呪った罪で。どこにそんな話が書いてあるのか。噂の真相を追求すると『宇治拾遺物語』だと分かった。その第十四巻十「御堂関白の御犬晴明等きどくの事」に面白い物語がある。
藤原道長が法成寺に参ろうとしたところ、飼い犬が中へ入れまいとする。不審に思った道長が安倍晴明を召して占わせると、埋められていた呪物が見つかった。その続きである。
若し道摩法師や仕りたるらん、糾して見候はんとて、懐より紙を取り出し、鳥の姿に引き結びて、呪を誦じかけて空へ投げ上げたれば、忽に白鷺になりて、南を指して飛び行きけり。この鳥の落ちつかん所を見て参れとて、下部を走らするに、六条坊門万里小路辺に、ふりたる家の諸折戸(もろおりど)の中へ落ち入りにけり、即ち家主老法師にてありける、搦め取りて参りたり。呪詛の故を問はるるゝに、堀川左大臣顕光公のかたらひを得て、仕りたりとぞ申しける。この上は流罪すべけれども、道摩が咎にはあらずとて、向後かゝるわざすべからずとて、本国播磨へ追ひ下されにけり。
「おそらく芦屋道満の仕業かと。取り調べてみましょう。」と言うや、ふところから紙を取り出して鳥の形をつくり、呪文を唱えて空へ投げると、たちまちシラサギになって、南に向かって飛んで行った。そして「あの鳥がどこに降りるか見てまいれ。」と部下に命じた。すると六条坊門万里小路のあたりの古びた家の両開きの戸の中に降りたが、そこはまさに芦屋道満の家であったので、道満を捕らえて連れてきた。道長公を呪った理由を問われると「藤原顕光公の指示でやりました。」と白状した。道長公は「これは流罪にすべきところだが、道満の罪ではない。今後はこのような呪詛をするでないぞ。」と申し渡し、道満を彼の故郷である播磨の地に追放した。
追放された道満はこの地に来て亡くなり、彼を弔う塚が造られた。そして、道満とて一人では寂しかろうと思いやったのか、清明の塚も造られた。ただし、芦屋道満そのものが伝説上の人物であり、安倍晴明のライバルとして創作されたと考えられている。つまり、実在の安倍晴明→架空の芦屋道満→古い道満塚→いぶし清明塚宝篋印塔→文化財指定という流れなのだろう。
『帝都物語』もそうだが、物語は虚実を入り混ぜながら創作される。それは史跡の形成においてもまた同じ。今回もフィクションから文化財が生まれている。史実と伝説の境目をバランスを取りながらゆっくり歩くのが、史跡めぐりの醍醐味なのである。
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