玄関で「暗くてお靴が分からないわ」と言われたらどうするか?「どうだ明るくなったろう」とお札を燃やして見せよう。むかしの成金みたいに。歴史の教科書や資料集には必ず載っている、あの風刺画のように。タイトルは「成金栄華時代」、作者は今年生誕120年の和田邦坊である。作品は昭和3年の発表で、見る人は「日独戦役の頃は、こんなバカな奴がいたね」と嗤ったことだろう。
この成金にはモデルがいる。この男、馬鹿げたこともしたが社会貢献もしていることはあまり知られていない。本日は、ふるさとの発展を願った成金のお話である。
津山市桑下に「山本農学校 山本実科高等女学校跡」がある。近くには旧鶴田藩の「西御殿跡」がある。
地名を校名とする場合が多いが、この学校の場合は人名である。とすれば、ひところ大いに盛り上がった「安倍晋三記念小学校」のようなものか。いや山本の学校は、そんなドロドロしたものではない。学校の沿革を知るために、まずは碑文を読んでみることにしよう。
我が県教育も南厚北薄久米郡は僻地にして教育の便を欠き其の名も高き山本唯三郎氏あり石川潔太湛増庸一両先生の知遇ありて氏を東京に訪ね地方教育振興の為之助成貮拾萬圓の御寄贈を得加ふるに地元より学校敷地の寄贈を受け大正七年初期より山本実業学校建設の緒に著き早くも仝年九月石川潔太陸軍少将を校長に(後に湛増庸一先生校長となる)男女共学開校に至り読いて大正八年四月より男子部山本農学校女子部山本実科高等女学校に昇格し仝年十一月二日盛大なる落成祝賀の式典を挙げ得て爾来発展の一途を辿りつゝありしにも不拘実に遺憾なる事情に遭遇し廃校の運命となる時に昭和二年関係者並に生徒卒業生の悲涙筆舌の盡す所に非ず其後仝校の跡地は忍ぶがによすがも無く茲に同窓の者相図り建碑の運びを進め今日之が除幕の式典と今は亡き恩師同窓生の方の為め慰霊祭を挙ぐるを得寄附者の芳名を左に記して感謝を捧げ以て建碑す
維時昭和五十三年九月三十日
碑文に登場する山本唯三郎が本日の主人公である。松昌洋行という会社で貿易業に従事していた山本は、欧州大戦の勃発により今後船が必要となると見込み、いち早くこれを確保する。予想は見事に当たって、山本は巨万の富を一挙に手に入れた。典型的な船成金である。
大正5年(1916)には衆議院の補欠選挙に立候補し、山谷虎三に敗れた。「虎」に負けたのが悔しかったのか、翌年には「山本征虎軍」を編成し朝鮮で虎狩りを行う。帰国後、帝国ホテルで開いた試食会のメインディッシュは「咸南虎冷肉 にこみ、トマトケチャップ、マリネ」だった。人々は彼を「虎大尽(とらだいじん)」と呼んだという。
また京都国立博物館で現在、特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されているが、歌仙絵巻を佐竹侯爵家から買ったのは山本であった。虎狩りと同じ年の事である。だが、戦後の不況により大正8年(1919)には売りに出された。あまりもの高額により買い手がつかなかったため、バラバラに切り売りされたのである。それから今年で100年となる。
こんなとんでもない成金を面白おかしく描いたのが、冒頭で紹介した「成金栄華時代」である。そのイメージから奇人変人と思われがちだが、彼は閑谷学校、同志社、札幌農学校で苦学した秀才であり、社会貢献活動(メセナ)にも熱心だった。久米郡の鶴田藩の士族の家に生まれ、岡山市で育ち、同志社で学んだ山本は、それぞれに恩返しをしている。
同志社に今もある「啓明館」は、山本の寄附により大正9年の竣工した。岡山市立図書館は、山本の寄附により大正7年に開館した。そして、生まれ故郷の久米郡では、山本の寄附により実業学校の開校が実現したのである。同じく大正7年の事であった。
初代校長の任に就いた石川潔太(いしかわきよた)陸軍少将も鶴田藩ゆかりの人で、馬鈴薯を代用食にと提唱する食糧問題の研究家でもあった。続いて校長となった湛増庸一(たんそよういち)も久米郡の人で、ミネソタ州立農科大学で学んだ秀才である。後に衆議院議員にもなった。
資金と人材を得て、久米郡に実業に関する専門的な学校が設立された。少年少女の学ぶ意欲を喚起し、地域の発展に大いに貢献したことだろう。ところが学校は長く続かなかった。昭和2年に廃校の運命を迎えたという。「遺憾なる事情に遭遇し」と刻まれているが、どのような事情であったか。山本唯三郎が同年に急死したことが関係しているのだろうか。
風刺画の成金は、バカなことをしているが、顔つきは好々爺である。実際にはいかめしい顔だった唯三郎も、ちょっと派手なことが好きなだけで、受けた恩を忘れることがなく、頼み込まれたら断ることのできないタイプのいい人だったのかもしれない。
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