「片目の魚」伝説は全国各地に分布し、あの柳田國男も『日本の伝説』で紹介している。片目となった原因は、魚を半分だけ食べて捨てたからだとも、魚の目を突いたからだともさまざまだが、とくに鎌倉権五郎景政が目の傷を洗ったからだとするものが有名である。柳田は伝説が語られる場所に着目し、次のように書いている。
動物学の方から見て、そんな魚類があるものとも思われませんが、とにかくに片目の魚が住むという池は非常に多く、それがことごとく神の社、または古い御堂の傍にある池であります。
本日紹介する伝説も、鎌倉初期以来の古い寺に伝わっている。さっそく行ってみると、片目の魚が棲むというのは川だった。
岡山県久米郡久米南町里方の誕生寺境内に「片目川」が流れている。本堂である御影堂と法然上人両親の霊廟である勢至堂との間にある。
橋の親柱には「片目河」と刻まれている。橋の名を「無垢橋(むくばし)」といい、国の登録有形文化財に指定されている。すぐ近くに「両幡の椋」とも「誕生椋」とも呼ばれる大きなムクノキがあることから名付けられたらしい。大正九年(1920)建設の割には古く見えるが、古い木橋を模した石橋だからだろう。
ムクノキにまつわる伝説も興味深いが、これは項を改めることとし、本日は川の伝説を追っていこう。説明板には次のように記されている。
保延七年(一一四一)三月十八日未明、預所(あずかりどころ)、源内武者定明(げんないむしゃさだあきら)の夜襲の際、九才の勢至丸(法然上人)小弓にて定明の右目を射る。定明、川に下りその疵目を洗う。以後この川に片目の魚が出現す。
のちに法然上人となる勢至丸は当時九才であった。父は漆間時国といって、ここ稲岡荘の治安を維持する押領使(おうりょうし)をしていたが、荘園管理をするライバルの明石定明の夜襲により亡くなってしまう。
この戦いで勢至丸くんが放った矢が定明の右目に命中したのである。九才の子どもにできそうにない離れ業だが、宗教には超人的な出来事がつきものだ。傷ついた目を洗っただけで、魚まで片目になるのも超常現象に他ならない。いや、これが阿弥陀仏の霊験というものだ。
さて、片目川にほんとうに片目の魚がいるのかと、しばらく川面を見つめていたが、さらさらと透明な水が流れるばかりで何も見つけることができなかった。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。片目の魚もすでに去ってしまったのだろう。
コメントありがとうございます。
詳細は分かりませんが、その時代の関心事が反映されているように思います。
投稿情報: 玉山 | 2023/04/29 00:22
片目のない方は右左?
上流に向かって目のない側の山に 放射性物質がある と聞いたことがあります
日本中には、そんなところがいくつもあるとのことです。
投稿情報: もったいない | 2023/04/28 18:23