大河「軍師官兵衛」で明智光秀を春風亭小朝が演じた。今やっている「麒麟がくる」の長谷川博己とはまったく異なるイメージだが、小朝は小朝で追い詰められていくようすを上手く演じていた。その「軍師官兵衛」で本能寺の変を知った官兵衛は、「殿のご運が開けたのですぞ。開けました。ご運が開けました!」と秀吉を鼓舞し天下取りを促したのである。
その後にまとまった毛利氏との和議において、高梁川以東の地が秀吉の領地になった。本日紹介する山城にも毛利勢が拠っていたが、秀吉方が接収することになった。その役目を果たしたのが軍師官兵衛なのである。
岡山市北区御津虎倉に「虎倉城跡」がある。市の重要文化財に指定されている。上の写真は本丸、下は天保四年に建立された「虎倉城趾歓喜山供養碑」で、城主であった「伊賀氏」「長船氏」という名字が見える。
伊賀や長船という城主がいて、城を舞台とした争いで多くの将兵が亡くなったのだろう。いったい、どのような勢力が争ったのか、ふもとにある説明板を読んでみよう。
町指定文化財 虎倉城跡(標高三二七米)
築城の年代は定かでない。虎倉物語(虎倉村又兵衛)によれば、伊賀伊賀守が、赤坂郡鍋谷の城から移ったとあるが、それは備前軍記等から文明十二年(一四八〇)ごろと推定される。一説によれば伊賀兵庫頭が応永のころ(一四〇〇前後)築城。また、大永七年(一五二七)服部伊勢守築城という説もある。城主は伊賀勝隆ー久隆ー与三郎家久の名が知られている。
天正二年(一五七一)虎倉合戦毛利勢敗退
天正六年(一五七八)久隆病没伊賀氏離散
家臣の多くは奥津高に帰農。宇喜多家臣長船氏・石原氏入城。
天正十年(一五八二)小寺官兵衛一時在城
天正十六年(一五八八)長船・石原内紛焼亡
御津町教育委員会
3説ある築城年代よりも注目すべきは、城主の伊賀氏3代であろう。特に久隆の時代が全盛期だったようだ。はじめ久隆は、西備前の戦国大名松田氏に仕えていたが、永禄十一年(1568)に愛想をつかして宇喜多氏に寝返り、家中の有力武将となった。
天正二年(1574)に宇喜多直家が毛利氏と手を結ぶと、虎倉城周辺はいっそう平穏になったが、同七年(1579)に直家が織田方に寝返ると、城は毛利勢に狙われるようになる。こうして起きた毛利氏(児玉元兼)VS宇喜多氏(伊賀久隆)の戦いを虎倉合戦という。したがって上の説明板の天正二年(そもそも1571ではなく74)は誤りで、正しくは天正八年(1580)である。
合戦は地域有数の激戦だったが、伊賀久隆の見事な指揮で宇喜多方の勝利に終わった。したがって説明板の天正六年(1578)久隆病没も誤りで、正しくは天正九年(1581)である。久隆は毒を盛られて殺害されたという。
これは毛利氏VS織田氏の情勢が緊迫する中で、宇喜多家中の毛利派が仕掛けたものらしい。久隆の跡を継いだ家久も通じていたのか、同年毛利へ寝返ってしまった。翌天正十年(1582)の備中高松城の戦いでも、もちろん毛利方として活躍する。
その後に行われた中国国分(くにわけ)で虎倉城は宇喜多領となり、伊賀家久は城から退去する。小寺官兵衛こと軍師黒田官兵衛は蜂須賀正勝とともに城の接収に当たった。天正十二年(1584)頃のことだろうか。地元の又兵衛が記した『虎倉物語』には、次のように記録されている。
伊賀与三郎御のきあと、秀吉公より蜂須賀彦右衛門殿・小寺官兵衛殿御両人御越候て、御仕置被成、長船越中殿へ御渡し被成候に付、越中殿は播磨のこま山の城より虎倉へ御移り被成候。
こうして虎倉城主は伊賀氏から長船氏へと交代した。したがって説明板の「長船氏・石原氏入城」は「小寺官兵衛一時在城」の後でなければならない。新城主の長船貞親は播磨駒山城から移ってきたという。
ところが、天正十六年(1588)にトンデモない事件が起きる。事件の始まりは再び『虎倉物語』、そして終わりの場面は類書の『虎倉記』で読んでみよう。
越中殿御機嫌能くゆる/\と御座候処に、越中殿を石原新太郎殿御打被成候。『虎倉物語』
然る処に何者哉覧(やらん)、城に火を懸け放し、火盛にもえ揚リ、寄合候者共、石原親子三人共に切殺し、各切腹死たりけり。さしもの一城時の間に灰燼となりけり。其後城主もうち絶候と也。『虎倉記』
石原新太郎は長船越中の妹婿であった。外部勢力と通じた陰謀ではなく、私腹を肥やす石原に越中が腹を立て、これに石原が逆ギレしたのが原因という。説明板にある「長船・石原内紛焼亡」とは、そういうことだ。さしもの一城もあっけなく灰となってしまった。
このように虎倉城は伊賀久隆、長船貞親と有能な武将が城主を務めたものの、二人とも暗殺という悲劇に見舞われている。供養碑に「伊賀氏」「長船氏」とあるのは、両氏に対して鎮魂の祈りを捧げるためだろう。
山上にはふもととは別の説明板がある。こちらの方が新しいようだ。読んでみよう。
御津町指定重要文化財 虎倉城跡
虎倉城跡は城山山頂に築かれていた中世の山城跡です。
一五世紀後半に金川城(玉松城)の出城として服部伊勢守が築いたといわれていますが、詳しいことは分かりません。一六世紀前半に伊賀氏の居城となり、以後三代にわたり城主となりました。一六世紀後半の伊賀久隆の頃が全盛で、宇喜多氏の有力武将として、備前国北西部から備中国東部を支配しました。やがて宇喜多氏と対立し、子の与三郎は虎倉城から出ました。その後、長船越中守の居城となりましたが、一五八八(天正一六)年、一族の争いで城は焼けてしまいました。
虎倉城跡のある城山は急な山で天然の備えとなっています。また、主要交通路の金川と高梁を結ぶ道、現在の県道高梁・御津線を見下ろすことができる重要な所です。
虎倉城は連郭式山城で、慰霊碑のある郭から東へ二〇〇mの山頂に本丸があります。本丸から東に二の丸、出丸が、西に三の丸があります。郭の先には堀切が設けられています。本丸は石垣で築かれ、三五×二五mの広さがあります。瓦片も見つかっています。虎倉城は重要部に瓦ぶきの建物が建ち、土塀が巡るしっかりした城であったのでし ょう。しかし、この城は戦いの時に備えた城で、ふだんは山麓の根小屋で生活していたようです。
御津町文化財保護委員会 御津町教育委員会
歴史については確かなことだけ簡潔にまとめている。それより、地理的な意義を示していることが重要だ。ここが東西交通の要衝だったからこそ、東上しようとする毛利氏が狙ったのである。毛利勢を撃退した虎倉合戦のあった天正八年は、三木合戦に続いて石山合戦でも織田方が勝利していた。その後の展開は上記のとおりで、城主暗殺によりいったんは毛利方となるが、中国国分で再び宇喜多領(秀吉方)となるのである。
「ご運が開けました」の備中高松城ばかりが有名だが、織田毛利の東西二大勢力の対決においては虎倉城も引けを取らない。なんたって軍師官兵衛がやってきたのだ。虎倉城を眺めながら官兵衛は、運が開けたことを実感したに違いない。
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