このたびのコロナ禍で、全国ほとんどの学校は首相の要請により3月2日から臨時休校に入った。新年度からは様々な条件付きで学校再開に踏み切ることとなったが、市中における大規模イベントの自粛要請は継続されるようだ。民間企業では濃厚接触を避けるため勤務形態の多様化が進んでいる。今や我が国は総力戦に突入した。イタリア、スペインなど欧州でも第二次大戦以来の全面戦争だ。軍隊や自然災害ではなく、ウイルスという、つかみどころのない敵との闘いである。
太平洋戦争末期の昭和20年4月30日、政府は官庁の休日全廃を決定したという。当時も総力戦だったが「在宅勤務」という言葉はなかったし、聞いても意味不明だったことだろう。同じころムッソリーニが処刑され、ヒトラーが自殺した。それでも我が国は総力戦を継続した。
文豪谷崎潤一郎が作州津山に疎開したのは、そのような状況下の5月15日だった。
津山市小田中の地蔵院前に「谷崎潤一郎『疎開日記』碑」がある。
谷崎潤一郎といえば『細雪』。私は読んだことはないが、市川崑監督の映画なら観た。瀟洒なお屋敷を舞台に、上品ながらもアンニュイな雰囲気の中、モダン・ガールのこいさんやら少々頑固なきあんちゃんの物語が展開する。去り行く時代への憧憬がそこにあるのだ。
映画で描かれたように、和洋が混在しながらも調和のとれた美しい文化が、戦前には確かにあった。阪神間モダニズムは主に建造物に表された特徴だが、私には『細雪』の世界のように思えてならない。文豪谷崎と作州津山は『細雪』でつながっているという。説明板を読んでみよう。
文豪、谷崎潤一郎は終戦まぎわの昭和二十年、津山に疎開しここ愛山・宕々庵で名作「細雪」を書き継いだ。
疎開先の熱海で書き始められた『細雪』は当局の弾圧で出版ができなくなるが、津山でも書き継がれていた。名作ゆかりの宕々庵(とうとうあん)とは、どのような建物なのか。碑文には次のように記されている。
疎開日誌より 谷崎潤一郎
池におつる雨の音侘し因に云ふ此の御殿は明治初年に城より此処に移し建てしものの由にて愛山宕々庵と号す。床の間に松平康倫公の書「愛山」の軸をかけその上に確堂書宕々庵の額あり。六畳の間に慎由公夫人静儀の和歌「山は今朝霞のきぬにつゝまれて千代の色そふ松の村立」の額あり。
「愛山宕々庵」という珍しい名称は「愛宕山」の文字を分解したものという。「宕々庵」を書いた確堂は、幕末の名君8代藩主松平斉民(なりたみ)である。慎由公とは9代で最後の藩主慶倫(よしとも)で、松平康倫(やすとも)公とはその後継者である。しかも、建物は城から移築した御殿だというのだ。
なぜ谷崎がこのような由緒ある場所に疎開ができたのか。谷崎の愛妻松子には妹がいて重子といい、『細雪』のモデルとなった森田家四姉妹の二女三女である。その重子は渡辺明という人と結婚したが、この方の父君がすごい。名前は松平康民(やすたみ)。確堂松平斉民の実子で、康倫の後継者として子爵となった華族である。谷崎が津山藩主ゆかりの地に疎開する理由は確かにあった。
谷崎が津山にやって来たのは5月15日、次の疎開地の勝山に移るのが7月7日。津山滞在は2か月足らず。いまのコロナ禍に絶対国防圏はない。私たちは隔離されることはあっても、疎開することはできないのである。
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