明治二年(1869)の版籍奉還により、藩主は国家から知藩事に任命され、お殿様から地方行政官になった。2年後には廃藩置県が断行されたので、版籍奉還は過渡的妥協的な改革のような印象がある。封建領主の力を段階的に削減した、というわけだ。
知藩事は非世襲であり、任免権は国家にあった。実際に福岡藩では黒田長知が免職となり、有栖川宮熾仁親王が福岡藩知事に任命されている。しかし、これは例外中の例外で、先代の隠居により世襲されるケースはよくあった。
さらに、明治三年(1870)に布告された「藩制」では、「知事朝集三年一度年々四季ニ分チ滞京三ヶ月タルヘキ事」とあり、参勤交代のような制度まであった。やはりお殿様なのか、それとも「知事」なのか。
本日は作州津山藩最後の9代藩主で、引き続いて知藩事に任命された松平慶倫(よしとも)について調べることとしよう。
津山市小田中に「愛山松平家墓所」があり、市の史跡に指定されている。
立派な唐門は、もと東照宮の門であったが、この地に移転されたのだという。東照宮はかつての鶴山幼稚園、つやま西幼稚園、この4月から鶴山塾となった地にあった。唐門は家康の二百回忌にちなんで文化十一年(1814)に7代藩主斉孝(なりたか)が造営したものである。脇のくぐり戸から中に入らせていただこう。
奥に「正四位慎由源公之墓」がある。明治四年(1871)の廃藩置県直後に亡くなった慶倫公の墓である。その隣にある「静儀夫人黒田氏之墓」には、明治十三年(1880)に亡くなった正室の静子(儀姫のりひめ)が葬られている。
姫は筑前福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)の養女で、実父は豊前中津藩主の奥平昌暢(まさのぶ)であった。姫は乳がんを患ったが、明治三年に久原洪哉(くはらこうさい)が摘出手術に成功したことで医学史にも名を残している。津山洋学の水準の高さには感服するばかりだ。姫はお礼にと、洪哉の妻に打掛を贈ったという。
墓地内に明治五年建立の「故津⼭藩知事正四位慎由源公神道碑」がある。篆額は従四位吉井信発(のぶおき)である。実はこのお方、第5代津山藩主松平康哉の孫で、鷹司松平家の養子となり上野吉井藩の第9代藩主となっている。維新に際しては徳川家との関係を清算する意味で、松平から吉井に改姓した。さすがに津山藩の人脈は豊かだ。
碑には松平慶倫の事蹟が刻まれているのだが、私は文久二年(1863)十二月に慶倫が幕府に提出した建白書に注目したい。攘夷の機運が高まる時勢を反映した内容となっている。『津山市史』第五巻近世Ⅲ幕末維新に分かりやすくまとめられているので読んでみよう。
武備の整うのを待って攘夷をしようといっても、このままでは武備は整う時節はない。武備のととのうのは兵器のみのことではなく、ただ「一心之決定」である。一心の決定は武備の大成である。速やかに上洛あって攘夷をお受けになり、征夷の号令を天下に下すことが征夷大将軍として皇恩に報いるゆえんである。
国論を攘夷にまとめ外国からの圧力に対抗せよ、と主張している。将軍に意見するのは大それたことのように思えるが、そこは「越前家ト称シ御三家ニモ准シ候」という気概のなせる業だろう。
松平慶倫の城、津山城で開催予定の「2020津山さくらまつり」は、コロナ禍により集客イベントがすべて中止となった。いま打ち払うべき夷狄は新型コロナウイルスなのである。大騒ぎしているうちにも、サクラは季節を忘れることなく今年も咲いた。現世(うつしよ)に霞む桜の城山を慶倫公は如何に見るらむ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。