「お台場」ネタはすでに2回公開している。「日本海のお台場」と「瀬戸内の静かなお台場」である。東京お台場だけでなく、地方にもお台場がある。そして賑やかさがまったく違う。というギャップネタだ。本日も懲りずに、地方の静かなお台場を取り上げたい。
岡山市北区横井上に市指定史跡の「横井上お台場遺跡」がある。石碑の揮毫は岡山市長を長く務めた岡崎平夫である。
これまで紹介したお台場は海の近くにあった。迫りくる異国船を追い払う攘夷を実行するための軍事施設だからだ。ところが横井上お台場は内陸部にある。いったい何のためだろうか。説明板を読んでみよう。
地元の人たちから「お台場」と呼ばれるこの遺跡は、古墳時代中期に築造された直径40mの円墳と、それを利用した江戸時代末期の砲台場である。かつて、この付近には数多くの古墳があったが、相次ぐ開発のため、今ではこの古墳のほかに数基を残すのみとなった。
お台場は、幕末に岡山藩が津山街道に対する防備のため、古墳の周囲に土塁を築いて砲台と見張り台とし、藩兵がしばしばここで大砲射撃の練習をしたと伝えられている。現在でも土塁が往時のとおり残されており、古墳と砲台場が重なった貴重な遺跡である。
平成22年3月 岡山市教育委員会
どうやらお台場遺跡のすぐ近くの山中を、今の国道53号に匹敵する主要道、津山往来が通過しているらしい。交通の要衝を押さえ、北方から平野部へ侵入しようとする敵を撃退するために、お台場は築造された。
しかし、内陸部を外国軍が通過するとは思えない。ならば仮想敵国はどこか。津山往来を北へ北へと進めば作州の雄藩、津山藩がある。藩主松平氏は、徳川一族の中でも名門中の名門とされる越前家の系統である。福井藩との間で本家争いをするくらい誇り高き家柄だ。
これに対して岡山藩主池田家はどうだろう。池田輝政は文禄三年(1594)に、秀吉の計らいで徳川家康の娘を娶った。関ヶ原の試練を生き延びたのは、徳川との縁が幸いしたとも言えよう。しょせん外様は外様である。
池田家が尊王攘夷の姿勢を強めれば、徳川家との確執は必然であった。親藩津山藩の動きに警戒し、その攻撃に備えたという流れは理解できよう。史実として、津山VS岡山の対決はなかった。それは戊辰戦争の舞台が東日本だったためである。成り行きによっては、横井上お台場が戦跡となった可能性は無きにしも非ず。「お台場」と「戦争」とは第一印象は異なるが、実に近しい関係にある。