「義民」と呼ばれるのは、一揆の首謀者に多い。民衆の生活を守るという義のために、我が身の危険を顧みず行動した人々である。義民の顕彰碑は各地にあり、このブログでも「享保の改革に抵抗した一揆」や「けちらかされても訴える」で大規模な一揆を主導した義民を紹介したことがある。本日紹介する義民は一揆の首謀者ではない。むしろ民生の向上に努める藩に協力した功労者である。いったいどのような人物なのだろうか。
旭川水系と吉井川水系の分水界の近くに「誕生寺池」があり、そのほとり岡山県久米郡久米南町里方に「河原善右衛門(かわらぜんえもん)頌徳碑」がある。
大きな河川から隔たったこのあたりの高原には溜池が多い。善右衛門によって築かれた溜池は16あり、なかでも誕生寺池は最大規模である。この功績を讃えて建てられたのが、本日紹介の石碑である。まず正面の銘を読んでみよう。
頌徳 贈従五位 義民河原善右衛門之碑 岡山県知事加藤武徳書
加藤武徳はのちに参議院議員となった政治家で、現厚生労働大臣の加藤勝信は弟の娘婿に当たる。側面の碑文も読んでみよう。
満々の ここ誕生寺大池の
水のこころは善右衛門が心
池のいのちは善右衛門が命
延宝天和の頃下弓削村大庄屋河原善右衛門あまたの池を造り新田を拓き運河をもくろみて綜合開発の先駆をなす村人らその徳を慕い語り伝えて義民と称す 偉なる哉
昭和四十七年一月 誕生寺池用水組合 建之
「綜合開発の先駆」だという。昭和47年当時は高度経済成長を背景に新全国総合開発計画が進められていた。久米南町の人々は大規模開発の原点を誕生寺池に見出し、池を築造した善右衛門を先駆者と評価したのであろう。
善右衛門の顕彰碑には、もっと古いものがある。
久米南町下弓削の墓地に「河原善右衛門顕彰碑」が2基並んでいる。
一つは安政三年(1856)、もう一つは昭和四年(1929)の建碑である。昭和の顕彰碑には、法学博士平沼淑郎の書で「贈従五位河原善右衛門之碑」と刻まれている。淑郎の弟は首相を務めた騏一郎である。裏面には善右衛門の事績が記されているので読んでみよう。
君姓は河原氏通称善右衛門下弓削の人なり資性仁慈物を愛す夙に利世安民の志あり国主森侯君を擢でて大里正と為す部内交通便ならず又屢水旱の患あり君鋭意之が改善を図り大に土木を興して道路を通し橋梁を架し運河を開き堤防を築き佐良川弓削川塩内川等の河道を改修し田を得ること数十町特に池溝を修築すること十六灌漑段別三百余町に及ぶ民庶永く其恵に頼る国主厚く之を嘉賞し大に殊寵を蒙る不幸貞享二年四月廿六日寃を以て歿す君の生時寛永八年を距ること実に五十五年なり時人痛惜慟哭すと云ふ後安政三年十一月時の里正宮本信古碑を下弓削字往生に建てて君の異績を表彰す昭和三年十一月十日 今上天皇即位の大典を挙げさせ給ふに方り特に従五位を追贈し給ふ天恩泉下に及に枯骨光を放つ嗚呼君の名千歳朽ちずと謂ふべし矣
昭和四年四月 従六位永山卯三郎撰 河原信之書
撰文は永山卯三郎、岡山を代表する郷土史家である。文中に「安政三年十一月時の里正宮本信古碑を下弓削字往生に建てて君の異績を表彰す」とあるが、庄屋の宮本勘三郎が建てた碑が2基のうちの左側である。安政の碑の正面には「善静院宗仙信士」という善右衛門の法名が刻まれている。また「寃を以て歿す」とあるように、亡くなりかたは尋常でないようだ。
久米南町下弓削の久米南町役場前に「義民河原善右衛門遺跡」と刻まれた碑がある。
ここは久米南町のメインストリート、店舗や施設が多く車や人の往来も盛んだ。善右衛門にどのような関わりがあるのか、説明板を読んで驚いた。
史蹟『河原善右衛門(かわらぜんねもん)・磔田(はりつけだ)』
久米南条郡弓削庄の大庄屋河原善右衛門(一六三七~一六八五)は封建時代に経世の才に長じ、農民の為に民主政治を行う。その事績、声名を妬む輩の讒訴により極刑でこの地の露と消えた。
時に、貞享二年(一六八五年)四月二十六日、以来この(田圃)を磔田と称し、先人の死を悼み、遺徳を偲び今日に及んでいる。
地元の人々に対する見せしめのため、この地で磔刑が行われたのだろう。つまらぬ嫉妬心が功労者を死へと追いやってしまった。いったいどのような罪があったというのか。名目的とはいえ死に値する説得力のある理由付けが必要だ。
久米南町宮地に「河原善右衛門供養碑」がある。卒塔婆には「善静院宗泉幽儀」という法名が記されている。平成八年に発見され整備されたものだという。
供養碑の左側に久米南町文化協会による石碑があり、表面に善右衛門の事績、裏面に墓地整備の記録が記されている。事績を読んでみよう。
河原善右衛門事蹟
河原善右衛門は、寛永八年(一六三一年)久米南条郡弓削村(現久米南町下弓削)に生まれた。度量篤く、進取の気性に富み、経世の才に長じ、国主森長継より大庄屋を命ぜられ、よく善政を施し、地方の開発と、民の利益増進に努めた。
その経営した事業は、厨神社の移転、佐良川、弓削川など数多河川の改修、道路の開設、堤防改築、新地開墾。誕生寺池、長万寺池を始め、十六を越える貯水池の新築修築を行なった。
これらの池は今日に於いても、なお満々たる水を湛え、四百町歩の田畑を潤し、住民の生活を支えている。それら独特非凡の手腕は、領主よりの一層の信任と寵遇を得たが、その盛名を妬んだ心なき者の讒訴により、無実の罪を着せられ、貞享二年(一六八五)四月二十六日、五十五歳を以て、一族九人と共に磔台の露と消えた。
昭和四年(一九二九)、生前の功績に依り、従五位を贈与された。
一族九人が連座したというから、善右衛門の個人的な不祥事ではないとされたのだ。無実の罪とはいったい何なのか。供養碑の前に東屋があり、そこに木製の説明板が設置されている。こちらも読んでみよう。
河原善右衛門について
河原善右衛門は寛永十四年(一六三七)久米南条郡弓削村に生まれ、才智に富み、長じて大庄屋となり、善政を施す。農業振興、民生安定に尽力した。特に坪井池(水面積六ヘクタール・灌漑面積六六ヘクタール)など、多くの溜池を築造し、灌漑面積は百ヘクタールに及んだ。
また、延宝七年から佐良川の改修を行い、新提防を築き、古い河川敷を開発して、新田一三三石を得るなど多大の治積を上げ、津山藩主森氏の信任厚く、破格の待遇を受けた。
しかし、卓越した手腕が藩の重臣の嫉妬を買い、隠し田の罪に陥れられ、連座した一族と共に、貞享二年(一六八五)四月二七日、四九歳(推定)を以て磔に処せられ刑場の露と消えた。昭和四年(一九二九)従五位が贈られた。
「美作一国鏡」「美作孝民記」「弓削町史」「久米南町誌」等に詳述されている。
久米南町文化協会
二つの説明文を読み比べると、生年、忌日、享年が異なっていることが分かる。墓地の顕彰碑は寛永八年説、役場前の磔田は寛永十四年説と、やはり分かれている。忌日は26日が多く、木製説明板の27日説は分が悪い。
しかし木製説明板には重要なポイントが記されている。「隠し田の罪」という罪名だ。確かに脱税は法に反する行為で許されることではない。しかし藩の功労者を一族もろとも処刑するにふさわしい重罪だろうか。あまりにも悪質な隠し田だったのだろうか。
さらに調べると『岡山県大百科事典』の「河原善右衛門」の項に、次のような記述があることが分かった。
1684年(貞享元)津山藩は侍96人を検見役人として領民に大変な重税を押しつけ、これに反抗する一揆の動きが美作全域に及ぼうとしたため、善右衛門に隠田(かくしだ)の罪をきせ、翌年関係者10人とともに処刑した。
善右衛門処刑の背景には一揆の動きがあったというのだ。事実18世紀の享保年間、津山藩では山中一揆という全藩一揆が発生し、51名もの処刑者を出すこととなる。善右衛門と一族の処刑は一揆を未然に防ぐという意味があったのか。そして、民衆のために立ち上がろうとした善右衛門は「義民」と呼ばれるようになったのか。
それにしても、である。脱税という罪に比べて刑が過重な印象が否めない。見せしめという要素を考慮してもやり過ぎだ。仮に一揆を計画していたがために処刑されたのなら、罪が河原一族だけに押し付けられるのは不自然だろう。一揆には広範囲に連絡を取り合う仲間が必要だ。ならば、善右衛門が処刑されたのはなぜか。
日蓮教団には不受不施派という強信の人々がいた。幕府の指示にも妥協しないので厳しい弾圧を受けることとなる。このブログでは「江戸幕府、もう一つの宗教弾圧」で下総の事例を紹介した。岡山藩の名君として知られる池田光政も寛文八年(1668)に僧侶や信者ら6名を斬首し、その一族28名を国外追放とした。翌九年に幕府は不受不施派を寺請制度からも外し、完全に禁制としたのである。
それでも潜伏して信仰を続ける者はいたに違いない。河原善右衛門も表向きは問題ないように見えたが、ひそかに信仰を続けた内信者だったとしたらどうだろうか。おそらく信仰は善右衛門一人にとどまることはなく一族に及んだであろう。10名が処刑された背景には、そんな事情があったのではないか。
詳しいことは何も分からないが、確かなのは誕生寺池が今も誕生寺、弓削両地区の水田を潤し、人々の生活を支えていることだ。公共のために尽くす気持ちを「義」と呼ぶならば、善右衛門が「義民」であることに間違いはない。供養碑の前では蓮の花が咲く頃に、善右衛門を供養する「蓮花祭」が行われるそうだ。
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