武田鉄矢さんがマルちゃん赤いきつねの新CM発表会で「たたみ一畳くらいのね前方後円墳なんですが、それを故郷の丘に築くというのが自分の目指すゴールでございます」と語った。10月1日配信の時事通信芸能動画ニュースである。なんだか素敵だ。千数百年の時を経てもあの独特の形は私たちを魅了し続ける。
国土地理院が公開する「傾斜量図」は優れもので、古墳や山城跡など特色ある地形がよく分かる。特に「前方後円」は人工的な形なので発見しやすい。9月12日に神戸新聞が配信したニュースによると、相生市内で47mの新たな前方後円墳が確認されたが、これは倉敷埋蔵文化財センターの職員が傾斜量図を見て発見したものだという。
津山市油木北に「油木北奥の前古墳」があり、津山市の史跡に指定されている。もとは久米町指定の史跡だった。
試みに傾斜量図で確かめると、見事に前方後円形が浮かび上がっている。グーグルマップやヤフー地図ではさっぱり分からず、地理院地図でも標準地図では判別できない。航空レーザ測量のおかげで山中における遺跡が見つけやすくなった。説明板を読んでみよう。
津山市指定文化財(史跡)
油木北 奥の前古墳
吉井川支流の倭文川上流域の標高約二二〇メートルの尾根上に位置します。別名「奥の前一号墳」「里公文高塚」「油木高塚」とも呼ばれています。
葺石をもつ墳長約六五メートルの前方後円墳で、「後円部墳頂の長持形石棺から、銅鏡・銅鏃・鉄斧・鉄剣・玉類・短甲などが出土した」ことが伝えられています。また、近年実施された発掘調査では、墳丘上から円筒埴輪片が出土し、美作地方では数少ない円筒埴輪を伴う首長墳であることが判明しました。
出土遺物から古墳の築造時期は、四世紀後半頃と考えられています。
平成二〇年一二月一日 津山市教育委員会
かつていろいろと出土したようだが散逸して所在不明とのことだ。唯一「伝奥の前古墳出土内行花文鏡」だけが市重文として保存されている。油木地区の最有力者の墳墓だったのだろうか。
津山市宮部下に「岡の大塚」がある。市の史跡に指定されている。荒れているせいか傾斜量図でもよく分からない。
後円部で見つけた朽ちた標柱の他に特段の表示はない。理解の手掛かりにと『久米町史』を調べてみると、上巻「遺跡」大字宮部下に次のように説明されていた。
岡五号墳。(岡の大塚)大字中北下字岡の地内にある前方後円墳で昭和四十三年三月十九日に久米町重要文化財に指定された。後円部は丘陵の頂部にあり、前方部の墳端は少し東に降った鞍部である。全長は五七m、後円部の径三○m、後円部は西北から測れば三・五〇mの高さがあり、墳頂には径一○mにも及ぶ丸い大きな窪地があり、更にこの窪地に喰込んで西南の方向に広く深い溝が堀られている。前方部は長さ二七m、後円部に接するあたりの巾約一二m、墳端で巾七mを測り逆撥形を呈している様に見えるが前方部の墳端はひどく変形していて形がつかみにくい。即ち両側が段状になっているし墳端の中央よりや、北寄りのあたりから、そう大きくはないが溝が西の方向に堀りこまれ、その溝の先端に円形の窪地がある。全体として何人もの人により、何回もの盗堀に逢っている。「津山市史」では全長五四m、五世紀の古墳とされている。
確かに後円部には掘り崩されたような痕がある。奥の前古墳と同じく谷の入り口に立地していると見てよければ、宮部地区の有力者だったのだろうか。
津山市神代に「観音免(かんのんめん)古墳」がある。市の史跡に指定されている。ゴルフ場に行く道の途中にある。
観音免とは、貢租の対象地としなかった観音堂持ちの田畑、とのことだ。同じく『久米町史』上巻「遺跡」大字桑下には、次のように説明されている。
観音免一号墳。一辺一七m、高さ二・七mの方墳で完形、昭和四十四年十月九日付町指定になっている。昭和四十四年二月二十四日調査の際は墳下に観音堂があったが昭和四十七年八月十一日に訪れた際には観音堂は取り払われていた。
方墳で完形だそうだが、よく分からない。指定文化財のわりには解説がそっけなくて、名称以外に面白みがない。名称で面白いといえば次の古墳だ。
津山市桑下に「城﨏上(じょうざこうえ)1号墳」がある。同じく市の史跡に指定され、ゴルフ場に行く道の途中にある。
この古墳も標柱がなければ、ただの土盛りにしか見えない。どのような意義があるのか、『久米町史』上巻「遺跡」大字久米川南では、次のように説明されている。
二反田一号墳。円墳径一一m、高さ一・一m。此の古墳は昭和四十四年二月二十五日調査の際は「城﨏上一号墳」と名づけた古墳であって、墳丘が土取り場になっていたらしく墳丘はかなり掘り崩されていてその下際に十九番の石仏が安置されていた。
周湟らしいものも認められた。
昭和四十四年十月九日町指定となった。
(備考)前に私共が城﨏上一号墳としたのは、此の古墳のすぐ西南に、 ひどくこわれてはいたが径一○mくらいのものがあり、これを城塔上二号墳としたのでこの様に名づけたのである。しかし、「糘山遺跡群 Ⅰ」によれば城塔上二号墳にあたる古墳は無いので、これは私共が只の堆土を古墳と見誤やまっていたものとして此の際訂正したい。
1号墳、2号墳と続くのかと思ったら、2号墳は見誤りだったという。2号墳がないのに文化財名に「1号墳」と付けるのは、現教皇をフランシスコ1世と呼ぶようなものではないか。直ちに変更手続きを…、いや、話を大きくするのはやめておこう。
周濠らしいものがあるというから、ちょっとした地位ある人が葬られたのだろう。ここ糘山には遺跡が多いが、ゴルフ場開発のためか比較的よく調査されている。大都市近くの丘陵だったら、大規模な住宅団地となって跡形もなく失われていたにちがいない。
古墳の大きさには大小あって、形もさまざまだ。本日は久米地域で史跡に指定されている古墳を4基紹介した。前方後円墳2基、方墳1基、円墳1基である。墳形はどのようにして決められたのだろう。俺はスタイリッシュな方墳がいいな、私はカワイイ円墳ね。そんな自由さはなかっただろう。武田鉄矢さんが前方後円墳を選択したのは、大和王権に対するオマージュなのだろうか。
久米中学校で調べ学習をしているみなさんへ
学区内に古墳はたくさんありますが、古墳の形に着目して紹介するとよいでしょう。古墳の名称、築造年代、大きさを示し、古墳の形をイラストで描きます。出土品などの特徴を付け加えると出来上がりです。まず奥の前古墳についてまとめます。
「奥の前古墳」4世紀後半 65m 前方後円墳 銅鏡が出土している。学区では最大!
続いて以前の記事「台形+正方形=前方後方墳」を読んで、三成古墳についてまとめます。
「三成古墳」5世紀初め 35m 前方後方墳 石棺が5つも見つかる。家族のお墓?
その他、学区内には観音免古墳のような方墳、城﨏上1号墳のような円墳がありました。方墳や円墳などの小さな古墳は6世紀になってからつくられました。日本最大の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)と比べるのもよいですし、古墳の形や大きさが何を意味しているのかを自分なりに考えて書くのもよいでしょう。地図を用意して、学校とそれぞれの古墳の位置を示すと見栄えのよいレポートになります。では、頑張ってくださいね。
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