各地域で中世城館跡調査報告書が進んでおり、岡山県でもこのたび県内を三地域に分けて、詳細な報告書が刊行された。掲載の地図を見て驚くのは、城跡は至る所にあるということだ。山また山かと思ったら、城また城であった。
こんなところにも山城がと驚くことがあるが、立地にはそれなりの理由がある。本日紹介する山城は、現在も直下を中国道、姫新線、181号が通過し、かつては出雲街道があった交通の要衝に位置する。城跡が城主の子孫の方によって整備されているので行ってみよう。
津山市宮部下に「田邊城址」と刻まれた石碑がある。一般的には「年末(とっせ)城」と呼ばれている。大規模な山城で県指定史跡の岩屋城を望むことができるから、関連が考えられる。
「田邊出雲守権右衛門実成」という武将が居城していた。この地は尼子氏、毛利氏、宇喜多氏の草刈場だったから、合戦伝承には事欠かない。田邊氏はどのような立場の武将だったのか、『久米町史』上巻「中世の城塁跡」の「年末塁址」の項では次のように説明されている。
土地の古老の語り伝えるところによると、此の砦の守将は田辺某で、毛利の臣中村某が岩屋城を攻めた時、中村の軍勢の為に此の砦は落ち、守将田辺某は自害して果てたが副将の某は僅かになった敗残の兵を野辺(大字宮部下にある丘)に集結して最後の抵抗をし、全員玉砕した。というのである。毛利の臣中村某を中村大炊助頼宗とし、中村頼宗が天正九年に浜口家職の籠る岩屋城を攻略した時の事だとすれば、中村頼宗の葛下城から岩屋城への道すじにも当り、つぢつまが合わぬこともない。自害した田辺某は「田辺様」として現在田辺株三軒で今もまつられている。
天正九年(1581)当時、岩屋城を守っていた浜口家職は宇喜多方の武将。対する葛下城主の中村頼宗は毛利方の武将。年末城も覇権争いの最前線だった。勝利したのは毛利方、城を守る田邊実成は自害したという。
年末城跡(田邊城址)への道は整備されているとはいえ、その上り坂は半端ない傾斜である。落城させた中村の軍勢も大したものだ。翌々年の中国国分でこの地は宇喜多領になるが、中村頼宗は岩屋城をしばらく明け渡さなかったそうだ。中村恐るべし。
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