余部の鉄橋は『夢千代日記』の頃から知っていた。その後、列車転落事故や新橋への架け替えもあったが、行く機会もないまま遠い国の出来事のように感じていた。一昨年の夏、鳥取から湯村温泉を訪れた時、余部が意外に近いと分かって足を延ばした。紺碧の空と海、翠緑の山々、深紅の鉄橋。錦絵のように鮮やかな光景を前にし、ここまで導いてくれたすべてに感謝して、今日のことは忘れまいと誓うのであった。
兵庫県美方郡香美町香住区余部(あまるべ)に土木学会選奨土木遺産の「旧余部橋梁(余部鉄橋)」がある。平成22年(2010)まで供用された。
これほどの構造物なら歌われていないはずはないと調べると、やはりあった。『山陰鉄道唱歌』の11番後半から12番である。
西へ向へば餘部の 大鉄橋にかゝるなり
山より山にかけ渡す み空の虹か桟(かけはし)か
百有餘尺の中空に 雲をつらぬく鉄の橋
まさに天空の橋である。その気になれば人間はできるものなんだな、と妙に感心する。いったい、いつ誰がどのようにして架けたのか、5W1Hの基本情報を説明板から読み取ろう。
余部鉄橋の建設計画については、鉄道院米子出張所の岡村信三郎技師が余部詰所勤務となった際、潮風害による腐食と将来の保守の困難性を考慮し、鉄筋コンクリートアーチ橋案を鉄道院に上申した。しかし、建設費の低減や欧米での前例がないことなどから、最終的に鉄橋案が採用されたといわれている。鉄橋の設計は、鉄道院技術研究所技師古川晴一(兵庫県出身)が行った。
余部鉄橋に採用されたトレッスル式橋脚は19世紀末の米国で広範に採用されており、古川は明治40年(1907)7月より1年間欧米に出張し、技術的に可能なことを確認した上で、帰国後トレッスル橋の採用を決定している。
橋脚鋼材はアメリカンブリッジカンパニーのペンコイド工場で製作され、はるばる海を渡り九州の門司に到着。そこで日本海回りの汽船弓張丸に積み替え、明治43年8月下旬に余部沖でハシケに移し余部浜から陸揚げされた。組み立ては、明治44年5月からわずか5ヶ月という短期間で行われた。橋桁鋼材は石川島造船所で製作され、明治44年9月上旬に工事列車を仕立て、神戸から陸路で鎧駅まで輸送された後、鎧駅構内において昼夜兼行で組み立てられた。
鉄橋を設計した古川晴一氏については、碓氷第三橋梁(めがね橋)を扱った「美しい明治の鉄道橋」でも紹介したことがあり、鉄道橋梁史に大きな足跡を残していることが分かる。
新橋になって古い橋脚は一部を残して撤去されたが、その断片が文鎮として売られていた。大きさの割には重く感じるその金属塊はアメリカ製だという。説明板に記された建設の経緯を読めば、坂の上の雲に駆け上がる近代日本の勢いを感じとることができる。
天空の橋、余部。百年以上前にできた長大な橋梁である。コンピュータで計算できなかった時代に、これほどの大事業を成し遂げた。私たちはもっと自らの力を信じたほうがよいのかもしれない。