邪馬台国でさえ場所が特定できないのである。文献を重視するか遺跡を重視するか。何を根拠としてどのように解釈するのか。ひと頃は纏向遺跡の発掘成果により畿内説で確定と思われていたが、九州説も研究者から地域おこしに携わる人々まで幅広く支持されている。
そんな状況だから、平安時代の延喜式神名帳にリストアップされた神社の場所が分からなくなったとしても不思議ではない。本日は美作国の式内社の一つ、高野神社を訪ねて、二か所からレポートすることとしよう。
津山市二宮に「高野神社」が鎮座する。本殿の屋根の銅板を葺き替えたばかりで輝くように美しい。
重厚な中山造はこの地域に独特の様式で、中山神社や美作総社宮に見ることができる。いずれも有力大名の寄進によるものだ。ここ高野神社は一宮の中山神社に次ぐ二宮として崇敬されているが、どのような歴史があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
高野神社
祭神 彦波限建鵜葺草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
相殿 鏡作命(かがみつくりのみこと)(中山神)大巳貴命(おおなむちのみこと)(総社神)
由緒 安閑天皇二年(西暦紀元五三四年)の鎮座にして延喜式内社である。美作国二宮として官民の崇高厚く源頼朝は神門を建立し、山名教清は社殿の修造神馬の奉献毛利元就及小早川隆景は祭紀(注:祀の誤り)巌修を令し社殿を修造した。
国主森忠政公は代々深く崇敬の誠を尽し社領八十石を献じ寛文三年(紀元一六六三年)森長継公は現社殿を造営した。
旧社格は県社である。
延喜式神名帳に登載された「式内社」、そして源頼朝、山名教清、毛利元就、小早川隆景、森忠政とビッグネームが登場し、現在の社殿は津山藩の2代目藩主森長継公の寄進だという。さすがは二宮、他の追随を許さない社格が感じられる。
津山市高野本郷に「高野神社」が鎮座する。鳥居前の標柱に「式内社」と明示されている。
本殿は大きくないものの中山造である。こちらはどのような由緒があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
高野神社御由緒
御祭神 高野造祖大神
主神 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
相殿 応神天皇・神功皇后
高野神社の創祀年代は不詳であるが、はじめて国史に登場するのは貞観六年(西暦八六四年)従五位に叙せられたことに始まる。ついで貞観一七年(西暦八七五年)正四位下に昇叙され、さらに、延喜五年(西暦九〇五年)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載され、式内社となった。式内社は、美作国では十社しかなく、津山市内では中山神社と高野神社のみである。
御祭神は、古くは鵜葺草葺不合命一柱であったが、中世に武家の勃興とともに、相殿に応神天皇、神功皇后をお祀りして、明治維新頃までは八幡宮と称して、篤く信仰を寄せられてきた由緒ある古社で、現在ではこの高野の地を開拓し、繁栄に導かれた祖神として、高野造祖大神と称えている。 神社の周辺には神社に因んだ屋敷、池等の地名が広範囲にわたって数多く残っており、往時が偲ばれる。
御神徳は古来安産、厄除等の信仰が殊の外篤く、大神の広大無辺な御神徳を慕って遠近の参拝者が後を絶たない。
近年では交通安全、家内安全等に加え、地域の稚児の初宮まいり、七五三まいり等の御祈願も次第に増加している。
現在の御本殿は、文化九年(一八〇有余年前)に建立されたものである。
高野神社という式内社が二か所あることが分かった。似た名前の神社は多いから二社とも式内社なのか、それとも本家争いをしている論社なのか。
まず原典である「延喜式神名帳」として知られる延喜式巻第九、十(神祇九、十)を確かめた。巻第十に山陽道「美作国十一座」とあり、大庭郡八座、苫東郡二座、英多郡一座が列挙されている。このうち津山市域に該当するのは苫東郡である。関係部分を抜粋しよう。
苫東郡二座 大一座 小一座
高野神社 中山神社 名神大
高野神社は一座だけだから、二宮と高野本郷のいずれかの高野神社に比定できる。苫東郡は現在の津山市域の北東部に位置し、高野本郷を含んでいる。ならば高野本郷の高野神社が式内社ということになるが、それほど話は単純でない。
高野本郷の高野神社の旧社格は郷社である。これに対して二宮高野神社には、一宮中山神社と並び称されるにふさわしい格式がある。古代にはその地位が逆転していたのだろうか。いや、二宮高野神社には国指定重要文化財である「木造獅子」「木造随身立像」があり、平安時代の作品だという。
遺物など状況証拠から考えれば二宮が式内社にふさわしいが、神名帳に苫東郡と記載されていることを動かぬ証拠とすれば高野本郷が有利だ。こうなると、二宮が苫西郡であることをよく確かめずに苫東郡に含めて記載したのだ、と神名帳を作成した官僚のミステイクとするほかないだろう。
真実はどこにあるのか。タイムマシンに乗れば、それを知ることができるのかもしれない。できないとすれば、真実は歴史そのものに存在するのではなく、私が解釈したことに他ならないのかもしれない。
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