毛利元就と尼子晴久、どちらが中国地方最強か。歴史上の勝者は元就だが、永禄三年に晴久が急死した時、中国地方の要である石見銀山は尼子氏の手にあった。脳溢血が晴久を襲わなければ、また別の歴史があったのではないか。そんな妄想を巡らせながら、晴久の墓を訪ねたのでレポートする。
安来市広瀬町富田の月山富田城の南麓に「尼子晴久の墓」がある。
偉大なる祖父経久は尼子氏の勢力範囲を急拡大し、『陰徳太平記』巻之二「尼子経久立身之事」で次のように評された。
初めは雲州富田七百貫を領して、一国の守護識たりしが、天文の比十一州の太守に成り登られし
そのむかし山名氏は66か国中11か国の守護となり「六分一殿」と呼ばれたというが、一族5人で11か国だった。ところが経久は一代で11州の太守に成り上がった。さすがは東の早雲、西の経久だ。
経久が勢力下に置いた11州とはどこか。中国地方には出雲・隠岐・石見・伯耆・因幡・美作・備中・備後・備前・安芸・周防・長門の12国があった。そのほとんどを尼子氏が支配した事実はない。
それでも、出雲・隠岐を中心に石見・伯耆・備後・安芸・備中・美作・備前に影響力を有していたであろう。毛利氏を味方につけた大永三年(1523)頃は、大内義興に勝るとも劣らぬ大名であった。ただし守護に補任された事実もない。
これに対して晴久は天文二十一年(1552)に、将軍義輝(当時は義藤)から次のような御判御教書を与えられている。
(花押)
因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中六箇国守護職事、所補任尼子民部少輔晴久也者、早守先例、可致沙汰之状如件
天文廿一年四月二日
晴久が6か国の守護に補任されている。肝心の出雲・隠岐の両国がないが、これは京極家から尼子経久、そして晴久へと継承されたと認識されており、別の補任状があったらしい。つまり晴久は8か国の守護となったのである。
本ブログでも「盛者必衰の美作戦国」で晴久が、永禄二年(1559)に美作一宮中山神社を再建したことを紹介した。その建築様式は今日「中山造」と呼ばれ、美作の神社建築の特色となっている。その源流は出雲大社にあるというから、尼子氏が名実ともに影響を及ぼしていたことが分かる。
晴久は経久から家督を継承(天文6年)したが、これは父政久が若くして戦死してしまったからである。政久の弟が国久で、後に晴久は意のままに動かない国久を粛清(天文23年・1554)することとなる。これを晴久の権力基盤の強化とみるか、尼子氏の戦闘能力の低下とみるかで歴史的評価は異なる。
毛利氏と石見銀山の争奪戦を行い、尼子氏が銀山の防衛に成功したのも国久粛清以後のことだから、晴久率いる軍勢にいささかの問題もなかったのだろう。ところが、その死は突然やって来た。『雲陽軍実記』第三巻「元就元春於厳島幷鰐淵山被修調伏法事」には、次のように記されている。
晴久公、永禄五年十二月廿四日の暁行年四十八歳にて手水の為に椽先(えんさき)へ出て頓死有りし社(こそ)労敷(いたはし)けれ。是厳島、鰐淵山にて被修し、祈祷の験(しるし)也。又翌年八月四日和地の元実が毒薬にて、毛利大膳大夫隆元は行年四十一歳にて頓死し給ふ。是唯事(たゞごと)に非ず。
亡くなったのは永禄三年が通説で、歴史の流れに照らして妥当と考えられるが、ここでは永禄五年で語られている。おそらく毛利隆元の死との因縁を語りたいがために、両者の死を近付けたのであろう。
働き盛りの当主を亡くした尼子氏と毛利氏。毛利氏には元就という大黒柱と毛利両川が存在したが、尼子氏には誰もいなかった。国久粛清の影響は、晴久の死によって顕在化したのである。惜しみて余りある八か国守護の死であった。
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