初めて赤穂に行ったというか通過したのは、家族で姫路城に行った時だ。父が山陽本線と赤穂線どっちで行く?と聞くから、乗ったことのない赤穂線がいいと答えた。以来、赤穂線は岡山と姫路を結ぶ線路だと認識していた。
赤穂線の中心となるのが播州赤穂駅だ。前から不思議に思っていたが、なぜ「播州赤穂」なのか。赤穂という駅名が他にあるのか。播磨ではなくなぜ播州なのか。歴史はJRでも国鉄でもなく、私鉄の赤穂鉄道にさかのぼる。
赤穂市中山に旧赤穂鉄道の「富原(とんばら)駅跡」がある。写真奥は有年方面である。
廃線跡は兵庫県道525号周世有年原線として活用されている。勾配の少ない山裾の狭い道だから、ドライブというよりサイクリングによさそうだ。標柱の説明を読んでみよう。
富原駅は真殿間1.5km、有年間2.3kmの停車場で、乗客がある場合にのみ列車が停車していた。駅舎は無人で、待合所のみの簡便な建物であった。
バス停のような駅だ。急ぎ駅に向かう途中で近付く汽車を見たなら、もう乗ることを諦めねばならないだろう。ホームに客がいなければ通過してしまうからだ。ここ富原地区の子どもは高雄小学校に汽車通学していたという。
赤穂市周世と高雄を結ぶ高雄橋の隣に「根木鉄橋橋脚台跡」がある。写真奥は播州赤穂方面である。
橋の右手を新幹線が通過し、広い風景を駆け抜ける列車の撮影スポットとして知られている。新旧の鉄道が同じような場所で千種川を渡っていた。単なる偶然なのか、地形の制約による必然なのか。ただし、鉄橋の向きは90度異なり、西へと向かう新幹線に対し、赤穂鉄道は南へと進む。
赤穂鉄道の駅を起点の有年駅から順にたどってみよう。有年駅を出た汽車は千種川左岸に沿い、富原駅、真殿駅、周世駅に停車し、根木鉄橋を渡って根木駅、目坂駅、坂越駅、砂子駅に停車した後、終点の播州赤穂駅に着いた。
播州赤穂駅は大正十年(1921)の赤穂鉄道開業時に設けられた。当時、伊那電気鉄道に赤穂(あかほ)駅があったため、区別のために赤穂(あこう)駅に「播州」を冠した。私鉄だから「播磨」でなくてもよかったのだろう。
赤穂鉄道の廃止は国鉄赤穂線開業時の昭和26年(1951)で、新たな駅が北側に設置された。名称は引き続き播州赤穂駅とされた。というのも国鉄飯田線(伊那電気鉄道を国有化)に赤穂(あかほ)駅があったし、慣れ親しんだ「播州」を今さら「播磨」に変える必要はないと判断されたからだろう。ちなみに赤穂(あかほ)駅は、その後「駒ヶ根駅」に改称されている。
コロナ禍になる前、関西方面に出かけるのに赤穂線をよく使った。というのも、朝早くに播州赤穂駅発の新快速があり、確実に座れたからだ。赤穂線内を8両で走り網干で4両を増結して姫路に向かう。空席が目立つのも姫路まで、そこから先は通勤通学客で大混雑する。関西は目下、緊急事態宣言。自由に往来できるようになるのは、いつのことだろうか。
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