「幸せとは何か」この崇高な問いに、「お風呂に入ること」と答えても何ら差し支えないし、むしろ共感する人が多いだろう。暑い夏に汗を洗い流す爽快感、寒い冬に冷えた体を温める抱擁感。風呂でなければ得られない幸福感がそこにあるのだ。土石流で被災した熱海では、宿泊施設が温泉の開放を申し出て、被災者から大変感謝されたと聞く。
岡山市東区瀬戸町万富に「俊乗坊重源湯屋の址推定地」と刻まれた石碑がある。平成七年三月に瀬戸町教育委員会によって建てられた。
重源の湯屋についてはアーカイブズ「重源上人温泉物語」「試論・日本入浴史」で備前や備中の関係地を紹介した。備前では湯迫(ゆば)温泉が有名なのだが、ここ備前万富(保木)にも湯屋があったのだろうか。近くに木製の説明板があり、次のように記されている。
俊乗坊重源湯屋跡推定地
東大寺大仏殿再建の瓦は建久四年(一一九三)頃から建仁三年頃まで万富の梅の地で焼かれた。東大寺再建勧進職俊乗坊重源は縁のある諸所に湯屋・念仏堂を建てている。此処は地名が風呂屋であり、石垣の中に造り込まれた井戸がある。
また隣接して地名に堂の本がある。
同じ万富地内に「万富東大寺瓦窯跡」があるが、ここに瓦の一大工場があり多くの職人が働いていたのだ。重源の湯屋は労働環境の向上に大いに寄与したことだろう。この井戸で汲んだ水を総社市黒尾の「鬼の釜」のような大釜で沸かして施湯したのかもしれない。もう少し詳しいことが、瀬戸町の文化財を語る会『瀬戸町の歴史散歩』1996に記されている。読んでみよう。
保木風呂屋遺跡
風呂屋は保木にある地名。この地名の一画に3畝10歩の一段高い田がある。この田の北と西側は、一段高く人頭大の栗石を積んで石垣を作ってあり、北側の石垣の中には、径約1mの井戸が作りこまれている。考えられることは、東大寺再建の瓦を梅で焼いているので、東大寺再建の勧進職、俊乗坊重源が、この地で施湯をした建物跡ではないかということである。この風呂屋の、東の谷には金光山福成寺址があり、すぐ北は堂の本の地名が残り、その附近からは合子片が出土している。こうした寺域の中へ重源が湯屋を造ったと考えたい。後世、湯屋が風呂屋に変わったものであろう。[昭和54年3月14日、重源の風呂推定地として町指定史跡]
「いやあ、今日もよく働いたわい」「やっぱり、風呂が一番じゃ」「これも重源さまのおかげよ」「わしらの作る瓦で、どんなお寺をお造りになるんじゃろか」「向こうの寺の何倍もあるらしいで」「ほんまか」「仏さまも超でっけえらしいで」「うそじゃろ」
備前国が東大寺造営料国となったのは建久四年(1193)、東大寺の再建事業が完成したのは建仁三年(1203)。備前国の職人が活躍し、東大寺の復興に貢献した十年であった。仕事中の職人にインタビューしてみよう。「ちょっとすみません。何をなさっているのですか」一人目はこう答えた。「重源さまの命令で瓦を焼いてるんだ。いったいこったい、どんだけ焼けばいいんだ」二人目はこう答えた。「瓦を運んでるんだ。お前さんもやっていくか。風呂に入れてもらえるぜ」三人目はこう答えました。「瓦を焼く土をこねてるんだ。この瓦が都のお寺を飾ると思うとワクワクするよ」
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。