我が国の三大怨霊は菅原道真、平将門、崇徳上皇とされるが、この三柱をも凌ぐのは廃太子早良親王ではないか。無実を訴えつつ憤死し、怨霊となって数々の怪異事件を引き起こした。鳴くよウグイス平安京遷都を成し遂げた桓武天皇を生涯苦しめ続けたのである。
津山市加茂町公郷(くごう)の加茂神社に「崇道天皇御陵」がある。
天皇と呼ばれているが歴代には数えられていない。桓武天皇が弟に贈った称号である。では、なぜ弟を天皇と呼ぶのか。そこにはドロドロした深い闇があった。説明板を読んでみよう。
崇道天皇(早良親王の尊号)御陵
崇道天皇は、光仁親王の第二皇子。天応元年四月(七八一)兄桓武天皇即位の際に皇太子となるが、延暦四年(七八五)藤原種継射殺事件への関与を疑われて乙訓寺に幽閉され、廃太子となる。
流刑地淡路国に赴く途中、自ら飲食を断ち、高瀬橋頭で三十六歳で没した。同九年、大赫令により親王号を回復、同十一年六月皇太子安殿親王(平城天皇)の病気が崇道天皇の祟りといはれたため、尊号を贈り慰霊。後に御霊界の祭神となり、貞観頃(八五九~八七七)に京都府修学院の崇道神社(御霊宮)天慶年中(九三八~九四七)に将門の乱に際して高望王の子村岡五郎良文が国家鎮護のために御霊宮を勧請した鎌倉の御霊神社に祀られた。
この地に、御陵があるのは資料不足でよく分かりませんが、毎年四月二十九日に慰霊祭を執り行っております。
また、明治十二年頃この所から出土した、秋草双雀鏡二面(平安時代後期の作)は津山市重要文化財に指定されております。
桓武天皇と早良親王は同母兄弟である。異母兄弟の争いはよくあるが、母を同じくしてそこまで争うとは。お母さんは高野新笠、現在の上皇陛下が平成13年に韓国とのゆかりとして紹介した女性である。
事件のキーマンは藤原式家の種継。桓武天皇の側近、急速に出世して首相補佐官のように絶大な権力をふるった切れ者である。政治に介入して混乱を招いた仏教勢力を排除し、新都を建設するという大改革を推進した。しかも、その場所は種継の母の実家秦氏の根拠地に近い場所だった。
こうした新興勢力の台頭を苦々しく思っていたのが旧勢力、大伴家持や佐伯高成であり、東大寺との太いパイプを持つ早良親王である。事件後に捕らえられた大伴継人と佐伯高成はそろって次のように自白した。『日本紀略』延暦四年九月二十四日条より
故中納言大伴家持相謀りて曰く、宜しく大伴佐伯両氏に唱え、以て種継を除くべし。因りて皇太子に啓(もう)して、遂に其の事を行う。
事件当時家持は亡くなっていたが、事前に暗殺計画を早良親王に相談していたという。このため親王は皇太子を廃され流罪となったのである。しかし、自ら飲食を立ち途中で亡くなってしまった。現在の守口市馬場町一丁目の高瀬神社のあたりだという。遺骸は流刑地の淡路国に運ばれ埋葬された。場所は現在の淡路市仁井の天王の森である。
親王は暗殺計画を知り承諾していたのだろうか。知っていたならあまりにも杜撰なクーデターである。ハンストを行ってまで無実を訴えたのだから、関与はまったくなかったのではないか。生前の家持が種継排除について継人や高成に相談した際に「皇太子さまはご理解くださるだろう」と言っていたのが、皇太子も承諾したということになってしまったのだろう。
怨霊と化した親王は桓武天皇を苦しめる。近親者の相次ぐ死、天然痘の流行、暴風雨や洪水、我が子安殿親王の病。怪異を鎮めるため延暦十九年に「崇道天皇」の尊号を贈り、同二十四年に大和国内に改葬した。奈良市八島町にある八島陵である。おそらく天皇自身にも「やりすぎた」という後ろめたさがあったのではないか。
その崇道天皇の御陵がなぜ美作山中にあるのか。地元の方が著した豊岡貢『かもの夜ばなし 昔話・伝説・年中行事』には、次のように記されている。
崇道様は桓武天皇の弟君早良親王で、帝の皇太子となられた。しかし、悪臣の讒言により帝のお怒りにふれ、難をこの地に逃れて隠れ住み、若くして不遇の一生を終えられた。死後、帝はその無実なる事を知って、崇道天皇の諡をおくった。
三倉は、早良親王の御住居のあった所。高御座(たかみくら)の御座を用い、御座(みくら)と書いておったが、いつのほどからか三倉と書くようになった。
ということは高瀬橋頭で亡くなったのは別人で、親王は天皇によって密かに逃がされていたのかもしれない。呑まず食わずで衰弱死するより、鄙の地で不遇の一生を終えるほうがよほどいい。美作山中に御陵があるのは、せめてそうであってほしいという人々の願いが生み出した英雄不死伝説なのかもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。