江戸から明治初期の美作は一揆が頻発している。元禄高倉騒動、山中一揆、勝北非人騒動、文政非人騒動、改政一揆、鶴田騒動、血税一揆という具合である。江戸初期に森忠政が入国する際、在地武士が抵抗しようとしたと伝えられているし、明治前期は自由民権運動もさかんだった。
備前ではかの有名な渋染一揆があるが、その他はほとんど聞かない。備前百姓は従順で美作の民衆は独立の気概を持っているということか。いや、これは県民性のような真偽不明の地域性によるものではなく、生産性の高さの問題である。
津山市加茂町行重(ゆきしげ)の真福寺境内に「美作改政一揆 義民の碑」がある。一揆はこの寺の鐘を合図に始まったという。
まずは一揆の概要を碑文で確かめることにしよう。
慶応二年十一月廿四日、美作国東北条郡行重村西分の百姓直吉らは、両三年来の凶作と、きびしい年貢米の取立てに苦しむ百姓達を救わんと、荒坂峠に一揆ののろしをあげた。加茂川の水いや増すごとく、沿道村々の百姓達は期せずしてこれに馳せ加わり、作州一円はもとより、遠く小豆島に波及して津山藩をおびやかした。
その時の嘆願書は
一、御年貢御蔵米三斗五升計リ切リノ事
一、御ハネ俵直シ人足御差止メノ事
一、以後御出馬アルトモ若党槍持ラ百姓ヲ御連レナサル儀オ断リノ事
等十一ヶ条にわたったが、藩はついに従来の納米制度を改め全領内に二万三千百五十俵のお手当米を下附した。後世これを「改政一揆」とよぶ。まさに明治維新前夜のことであった。
こゝに一揆九十周年を記念して義民の碑を建て、先人の犠牲的精神と団結力に感謝の意を捧げる。
慶応二年(1866)とは、まさに維新前夜。いや前夜であることさえ分からぬ混沌とした情勢だった。日々の暮らしをよくしたい。美作の人々が思っていたのは、この一点である。ところが自分たちに関係のない他所の戦争が暮らしを直撃することになる。
ずいぶん後の大正時代、米騒動の背景にシベリア出兵があったことはよく知られている。兵糧米の確保によってコメの流通量が少なくなり、米価が高騰したのである。今で言えば、中東情勢の激化によってオイルショックが発生するようなものだ。
慶応二年は第二次長州征伐の真っただ中。将軍家茂は大坂城で指揮を執った。凶作続きで困窮していたところに、戦争を見越した米の買い占めが行われ、大坂の米相場はこれまでになく急騰する。米不足による社会不安は全国に広がり、各地で世直し一揆が発生した。津山藩の改政一揆もその一つである。
年貢納入米は一俵につき三斗五升きっかりとすること。年貢米検査の立会人を廃止すること。役人の不正が横行していた実態が見て取れる。戦争があっても百姓を徴用しないこと。幕末の農兵隊については近代的な軍隊の萌芽、あるいは身分の上昇転化として描かれることが多いが、ここでは「はっきり言って迷惑です」と言うかのように断っている。
津山藩は手当米を支給して一揆勢を慰撫したが、この対応を主導したのは鞍懸寅二郎。親藩であった津山藩の藩論を勤王にまとめた切れ者である。佐幕派と勤王派の争いで藩内がぐだぐだになった例は多いが、寅二郎は一揆の鎮圧を通じて権力を掌握したのであった。
一揆勢は「戦争は百姓の仕事ではありません」と威勢よく断った。しかし数年後、維新の大変革の中で年貢米を納めることはなくなり、国民皆兵の制度が始まる。従軍を断れない時代がやってくるのである。そういう意味で、この義民の碑は「従軍拒否」の記念碑ともいえるだろう。
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