大企業が確実に結果を出しているのは辣腕社長の存在だけでは語れないだろう。幹部社員に優秀な人材を揃えているに違いない。大名も同じだ。大物が亡くなった後に急速に衰える大名家はいくらでもある。若き当主を盛り立て勢力を維持するには有能な家臣団が欠かせない。
三十一万五千石の岡山藩には一万石以上の家老が6人もいた。筆頭家老は虫明陣屋三万三千石(寛永十九年当時、以下同じ)の伊木氏、次いで天城陣屋三万二千石の池田氏、周匝陣屋二万二千石の片桐池田氏、金川陣屋一万六千石の日置(へき)氏、建部陣屋一万四千石の森寺池田氏、佐伯陣屋一万一千石の土倉氏である。
池田家は西国将軍と呼ばれた輝政が亡くなり、跡を継いだ利隆も3年後に死去。残されたのは8歳の光政であった。子どもに大藩姫路は任せられぬと、因州鳥取へ移封となった。慶長八年、日置氏は備前監国池田利隆のもとで備前金川を領した。同十八年に利隆が姫路藩主となると播州高砂へ移り、元和三年に光政が鳥取へ移封となると因州鹿野に移った。
成長した光政は寛永九年に備前へと国替えとなり、日置忠俊は備前金川へと復帰した。この忠俊の後継が忠治である。本日は日置忠治夫妻の墓所からのリポートをお届けする。
岡山市北区御津高津の安倉山に「日置忠治墓所」がある。旧御津町では史跡に指定されていた。
左側の傾いているのが忠治の墓である。風化は進んでおらず「見性院剣巌経知居士」の法名を読み取ることができる。亡くなったのは元禄六年(1693)。右側が奥方の心珠院の墓塔であり、こちらは読みにくいが「心珠院妙龍日顕大師」である。亡くなったのは貞享二年(1685)である。
忠治とはどのような家老なのか。忠俊の養子(実は甥)となって跡を継ぎ、24歳から59歳まで家老職にあった。『御津町史』には次のように記されている。
老中に在職中には承応の大洪水、明暦の大火(江戸)、寛文の大火(同上)、延宝の大洪水などの跡しまつや、寺社整理令等の大仕事があったようである。忠治の隠退のとき、老中池田主水(天城)は藩主綱政に留任を望んで嘆願書をしている程である。忠治が狩猟を好んだことは、光政、綱政とも共通し、幕藩体制の強化の時代にあたって最適の人物であった。快活な単刀直入型の人物で、狩猟にはしばしば勢子大将をつとめている。
寛文元年(一六六一)正月二十八日、綱政は金川山で鹿狩を行った。弟の信濃守も同伴して鹿一疋をうちとめた。忠治にも撃って見よと所望されて狐一疋をとった。綱政は安倉山(高津)の野立所に立ち寄って日置家の家臣等に拝謁を許した。綱政は江戸においても今日ほど歓待を受けたことはないといって鹿五疋を与えた。忠治は終生忘られぬ感激であるといってその場所を自分の墓所としたというのも、封建時代を強く物語っているように思われる。
優秀な家老あってこその大藩岡山。光政綱政父子を支え藩政の基礎を見事に固めた。当時はかなりの大人物であったようだが、現今の墓や参道の荒れようは諸行無常そのものに思える。実際私は途中で道を失い、しばらく山中をさまよっていた。墓所がお寺にあったならきれいに維持されていたかもしれないが、この山中ならではのエピソードが忠治にはある。遺志を大切にしたいものだ。
岡山市北区御津金川に「金川陣屋跡」がある。かつては御津町役場、今は北区役所御津支所があり、行政の中枢であることに変わりない。陣屋を偲ばせる遺構は石垣だけのようだ。
忠治を二代目とすれば十二代忠尚で明治維新を迎える。忠尚は新政府最初の国際問題となった神戸事件の当事者である。明治から大正期の当主で男爵を授けられた健太郎は、現在の県立岡山御津高等学校の源流の一つをつくるなど、旧領金川の発展にも貢献している。
日置家は祖先も後裔も地域の発展を支えていることが分かる。そうしてみると、忠治の墓は君臣の紐帯を示すのみならず、日置氏と領地金川との絆をも表す貴重な文化財と言える。せめて墓の傾きだけでも修復できたらと思う。