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田中貴金属、三菱マテリアル、日本マテリアル、徳力本店、第一商品…。これで分かった方は、かなりのリッチマンなのでは。金地金を扱っている会社だ。近年の金価格は好調で、2020年8月7日には7,769円/1gを記録したという。
金価格は通貨の価値が下がる、つまりインフレが予想されると上昇するという特徴がある。おそらくコロナ危機で国債が大量に発行されていることから、インフレに強い金地金が求められているのだろう。本日は黄金を扱う商人で、義経を奥州に連れて行ったというあの人物のお話である。
新見市哲西町八鳥(はっとり)に「吉次の産湯の井戸」がある。
金売吉次の伝説は各地にあり、東北地方に多いようだ。白河市白坂皮籠(しらさかかわご)の「(伝)金売吉次兄弟の墓」は市の史跡に指定されている。屋敷跡では奥州市衣川田中西の「長者原(ちょうじゃがはら)廃寺跡」が有名で、岩手県の史跡に指定されている。
都と金を産する奥州との間を行き来していた商人だとされるが、生まれは備中だったのか。説明板を読んでみよう。
吉次は保延五年(一一三九)に生まれ、父は吉内、母は松山、この井戸で吉次の産湯の水を汲んだと言い伝える。
十六才の時両親とも世を去り、みなし子となったが、成長して父の業をつぎ、金売商人になったという。
哲西町自然と文化の保護協議会
伝説的人物にしては詳しい内容だ。新見市報道委員会『ふるさと探訪』には、もっと具体的な物語が紹介されている。
吉次はいまの阿哲郡哲西町八鳥の人といわれる。
今から八百二十年ほど前、保延五年(一一三九年)八鳥道明寺屋敷金売吉内の息子として生まれた。
時の城主神代弾正に愛され、城主の姫「寿」と仲好しで育った。成人した吉次は姫に慕われこれを嫉妬した家臣の奸計におちて城を追われる。その後数奇な運命をたどりながら、生別したわが娘の思慕する牛若丸に、源氏再興の望みを託し、義心から娘を斬って牛若丸をはげましつつ、奥州平泉へ旅立つのである。
吉次の墓がどうして田曽にあるのか、何も証拠はない。
江戸時代の読本のような面白さだが、とうてい史実とは思えない。よくよく調べてみると出典は、明治29年発行の松居松葉『小説 金売吉次』青木嵩山堂だと分かった。松居松葉(しょうよう)という人は坪内逍遥と並び称されるほどの劇作家で、このようなスペクタクルは得意なのだった。ただし、なぜ松葉が吉次の備中出生説を採用したのかは分からない。
新見市足立(あしだち)の田曽(たそ)地区に「金石さん」がある。白河市の史跡とされている墓とは大きく異なり、案内もないし墓のようにも見えない。
『ふるさと探訪』で言及されている吉次の墓はこれだと思われる。探すのに苦労したが、同じページに掲載された写真とほぼ一致するので間違いないだろう。一番上の石を軽く打つと金属音を発するので「金石」というそうだ。
ではなぜ備北地域に金売吉次の伝説があるのだろうか。この地方で金は産出しないが、たたら製鉄は盛んだった。田曽周辺でもかなくそが出土するという。また、八鳥地区は新見、東城、成羽へ通じる要衝であり、背後にある西山城の城下町であったという。
この西山城の城主について、幕末に成立した『備中村鑑』は次のように記述している。「本州古城跡」より
西山城 八鳥村 市川別当行房
源平合戦で源氏方として活躍した武士に市河行房がいる。市河氏のテリトリーは甲斐や信濃だから備中にゆかりがあるとも思えず、唐突な印象を受ける。ただ、市河行房→源頼朝→源義経→金売吉次という連想は不可能ではない。
鉄の取引で様々な人が出入りしているうちに「金売吉次」の産湯の井戸や墓ができたのであろう。全国各地で『義経紀』や『曽我物語』が親しまれていた証拠が、今回の伝説地なのかもしれない。
コクヨが来年1月からハサミやホチキスなどの文具を値上げすると発表した。背景には、中国の景気回復による需要の高まりで、鉄鉱石とか鉄スクラップ、そして鋼材の価格上昇があるという。これをアイアンショックというそうだが、ここは現代の金売吉次さんに何とか安く調達してもらいたいところだ。
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