「北房ぶり市」は三百年以上の伝統を誇る大イベントで、現在は毎年2月の第1日曜日に開催されている。山間部ではめったに口にできないブリを、当時の代官が「正月くらいは」と許可したことに始まるという。ステージは「ぶり市許可状伝達式」で始まるが、これは伊勢国亀山から備中国北房へ伝達された許可状を代官が読み上げるのだという。本日は伊勢亀山藩の飛地領のお話である。
真庭市下中津井に「伊勢国亀山領陣屋跡」がある。説明板とライオンズクラブの記念碑がある。石柱には「従是東北伊勢国亀山領」と刻まれている。藩領の境に置かれたもので、保存のため移設されたのだろう。
ここは旧上房郡北房町であった。北房JCTがあることから分かるように交通の要衝で、主要道は4車線化が進む岡山自動車道ではなく、備中松山(現在の高梁市)に向かう国道313号のルートだった。説明板を読んでみよう。
伊勢国亀山領陣屋跡
備中松山藩主の石川総慶(ふさよし)が延享元年(一七四四年)に亀山(三重県亀山市)へ移ったとき、北房町のうち、上中津井、下中津井、上平田、下平田の四ヵ村と、有漢町のうち垣、長代、川関、上村、中村、下村の六ヵ村、賀陽町のうち竹井、岩村、黒土の計十三ヵ村一万石は亀山藩の飛び領地となった。
亀山藩は幕末のころ特にタバコの栽培を奨励し「なかつい刻(きざみ)」として関西から四国へ販路を広げて藩の財政を潤し中津井の町も大いに栄えた。
いまに残る「鰤市(ぶりいち)」には近郷、近在からの人出でにぎわい三千本を超えるブリが売り買いされたという。
陣屋跡は、代官所が置かれたところで、明治四年(一八七一年)の廃藩置県まで、実に百二十七年間続いた。
現在ここには領界を示す石柱が残っている。石柱は備中松山城下と美作国を結ぶ街道の肌山峠(多和山峠)にあったものを後に移した。
モミの木は亀山市の市木で、亀山ライオンズクラブと 高梁ライオンズクラブが友好縁組を記念して、昭和六十二年十二月一日植樹したものである。
平成九年十月二十二日 真庭市教育委員会
この地は当初、備中松山藩領だったが石川総慶の移封に伴い伊勢亀山藩領となった。備中松山藩主の石川氏は一代限りだが、「麒麟(きりん)と呼ばれた武者」で紹介したように、山中鹿介を顕彰している。
ぶり市といいモミの木といい、北房の人々は伊勢亀山藩とのゆかりを大切にしている。その亀山藩は石川氏を藩主として幕末に至る。石川氏で最も知られているのは石川数正(かずまさ)であろう。譜代ながら徳川家康のもとから出奔するという異色の経歴を持つ。しかし石川総慶は数正の系統ではなく、数正の叔父家成の家系に連なる。伊勢亀山のほかに常陸下館でも藩主を務めた。明治になって子爵を授けられた。
説明板の隣に「山田方谷先生ゆかりの地」との標柱がある。側面には「松山藩公用で来訪した逸話を残す」とある。どのような公用だったのか知らないが、多和山峠を通って中津井に来たに違いない。今は国道313号の多和山トンネルであっという間に通過できる。昔も今も備中と美作を結ぶ主要道であることに変わりない。
ありがとうございます。作刀の好条件が北房には揃っていたのでしょう。歴史ある素晴らしい場所だと思っております。
投稿情報: 玉山 | 2023/12/10 20:02
刀剣銘「大与五国重」で有る刀工の石碑も有ります。松山城(高梁市)抱え刀工でも知られています。
投稿情報: 歴史好き! | 2023/12/10 18:05