近世城郭の美しさが扇の勾配をなす石垣にあるのなら、戦国山城の迫力は大堀切にあると言って過言ではない。近世城郭では石垣や御殿を築くのに対して、戦国山城では曲輪、切岸、堀切を削って造る。自然の山をいかに削って城砦とするか。現場監督のできるプロフェッショナルがいたに違いない。
岡山市南区郡の城山に「古城山(こじょうやま)城跡」がある。右手には雄峰金甲山が見える。
標高169mだから登りやすい。登城口は西側、写真では右手の谷にあり、頂上背後に見える鉄塔に向かう巡視路をたどる。鉄塔までは楽だが、そこから先が急峻、敵の侵入を防ぐ構造だ。
山頂は削平され、児島湾方面の見晴らしがよい。それほど広くはないから、見張りのため砦だったのだろう。古城山城の西には怒塚城、北東には高山城がある。北方を見通すことのできるこれらの城で、毛利氏は宇喜多氏に睨みを利かせていたのだろう。
ただし、城主など詳しい情報は何もない。古文献には次のように記されるのみである。
『備陽国誌』 古城山 郡村 (中略) 以上五城主不詳
『吉備温故秘録』 南谷城 郡村 城主不知
「古城山」とも「南谷城」とも呼ばれるようだ。見張り場だから、この城を本拠とするような城主はおらず、常山城を本部とする児島湾岸城砦ネットワークの一部を形成していたのではないだろうか。
最初の写真をもう一度見よう。鉄塔のある背後と両側は急峻だ。児島湾に向かって延びる尾根はなだらかに見える。実際、登城口から逆回りに進んで尾根に上がり、頂上を目指したことがある。確かに緩傾斜で歩きやすい。ところが…。
頂上手前で突然、大堀切に行く手を阻まれた。『岡山県中世城館跡総合調査報告書(備前編)』によれば、深さは約8mを測るという。斜面に茂る木をつかみながら堀底から上がったが、その当時なら守備兵の射掛ける矢でたちまち転げ落ちたに違いない。
構造が単純な低い山城ながら、この大堀切の一点で私は高く評価したい。ここはまさに防衛の最前線。ウクライナの人々がキーウ(キエフ)近郊に築いたバリケードも同じかと思うと、緊張感を想像することができる。