敵の補給路を断つことは勝敗を決定付ける重要な戦略である。今般のウクライナ戦争におけるキーウ攻防戦ではロシア軍の補給を止める作戦が行われたし、東部戦線では逆にウクライナ軍の補給路が断たれている。
それは本朝戦国の世でも事情は同じ。敵の補給路を完全に遮断する兵糧攻めが各地で行われた。特に秀吉の鳥取攻めは熾烈を極め、「渇え殺し」と呼ばれるほどであった。
鳥取市浜坂に「奈佐日本之助(なさやまとのすけ)の墓」がある。背後の山は日本之助が守った丸山城である。
大きな石碑は昭和三十九年に建てられた慰霊碑で、「奈佐日本助」と「鹽冶周防」を祀っている。左側に大きなタブノキがあり、その前に二人の墓が並んでいる。大きな方が「奈佐日本之助」、小さな方が「塩谷周防」のものであろう。表記には揺れがあり、塩谷周防は塩冶高清として知られる武将である。
慰霊碑とタブノキそれぞれに説明板がある。二人の武将は籠城戦でどのような役割を果たしたのだろうか。解説を読んでみよう。
史跡 奈佐日本助由縁の地
この山は、天正九年羽柴筑前守秀吉が鳥取城を攻めた久松戦の丸山城跡である。
ここの城首を奈佐日本助と呼び元但馬奈佐谷の領主であったが、但馬地方の秀吉戦に敗れてより、鳥取城主吉川式部少輔経家に仕えこの城を守りつつ毛利軍から海をこえて送ってくる兵糧を舟で袋川から雁金砦を経て、鳥取本城に運び城兵三〇〇〇余人の命を保っていた。
一方秀吉軍は本陣を久松山の東太閤ヶ平に講え難攻不落の鳥取城に日夜猛攻を続けた。鳥取本城は奈佐日本助の巧妙な兵糧輸送により頑強に抵抗を続けたが才知抜群の秀吉は万策ののち遂に食糧攻めを決意し宮部善祥坊をしてこの唯一の補給路雁金砦を奪取せしめた。このため連絡を断たれた本城は大混乱のうちついに落城したのである。雁金の首将塩谷周防もこの山に退き鳥取本城明渡しの報に日本助と共にその責を負い天正九年十月二十五日この地に無念の涙をのみ自刃した。
武士道に徹し身命をかけて戦った両雄の忠勇義烈は真に崇高の極みである。慈に慰霊碑を建立し永くその誉を讃え英魂に捧げる。鳥取市指定保存樹木
名称:奈佐日本之助の墓のタブノキ
樹種:タブノキ
樹齢:400年以上
由来
この樹木は、丸山城主奈佐日本之助の墓(通称河童地蔵)と雁金城主塩谷周防の墓を守るかのように枝を広げており、因幡誌では奈佐日本之助の墓の標しであろうと記載されている。日本之助と塩谷は、天正9年(1581)の秋、鳥取城が落ちると潔くその最期を遂げた。
このタブノキは、たとえ伝承の樹木とはいえ、落城悲話に寄せる人々の心情とともに、史跡の景観を構成する要素として評価される。
昭和62年4月指定
鳥取市
鳥取城のある久松山を中心に地図を見るとよく分かるが、東に秀吉が本陣を構えた太閤ヶ平があり、北西に延びる尾根先に丸山城がある。この丸山城から雁金山城、鳥取城へと毛利方の補給ルートがあり、その守備を任されていたのが奈佐日本之助と塩冶高清だったのだ。
重箱緑地公園から丸山城と鳥取城を遠望しよう。物資は写真の右側を流れる袋川沿いに雁金山城まで運ばれた。秀吉軍としては何としてでもこの補給路を断ちたい。命を受けたのは宮部善祥坊、秀吉政権下で鳥取を治める宮部継潤(けいじゅん)。見事、雁金山城奪取に成功し、鳥取城は完全に孤立するのである。
ウクライナ軍は欧米の軍事支援を受けながら、大国ロシアと向き合っている。鳥取城を守る吉川経家は奈佐、塩冶らの忠臣とともに、秀吉の大軍と向き合っていた。
欧米はロシアとの全面戦争を回避するため軍事介入をしないと表明しているが、毛利本軍も経家の救援に駆け付けることはなかった。その理由として、美作国内で宇喜多勢との争いに手こずっていたこと、吉川元春が進出に成功した東伯耆を重視したことが挙げられている。
孤立無援の状況でよく戦い潔い、最期を遂げた経家、日本助、周防。任務を全うしえなかった責めを一身に負う姿は武士の鑑のようだが、それは物語として楽しむこと。現実に起きているウクライナ東部の包囲戦は悲劇以外の何ものでもない。
美しい戦いなどこれまで一度もなかった。戦争は最大の人権侵害であり環境破壊である。国連人間環境会議から50年。自存自衛を主張する一国の問題ではなく、かけがえのない地球をいかに守るかという人類の課題なのである。