「鞆幕府」とは室町幕府の亡命政権である。聞き慣れない用語だが、昭和58年に発行された川西利衛『戦国史をななめに斬る 鞆幕府』(福山商工会議所)があるから、目新しい考えではない。確かに「征夷大将軍」足利義昭は鞆にいたが、幕府の体を成していたのかという批判的な見方もある。
令和二年の大河『麒麟がくる』では、滝藤賢一さん演じる足利義昭が頻繁に登場し、これまでのようなバカ殿ではなく、理想を追求しながらも挫折し苦悩する姿が演じられていた。長谷川博己さんの明智光秀が鞆の浦で鯛釣りを楽しむ義昭に会うシーンもあった。最終回も鞆の浦で閉じるという大サービスだった。
この年の秋に福山市鞆の浦歴史民俗資料館で「鞆幕府 将軍足利義昭~瀬戸内・海城・水軍~」という見応えのある特別展があった。鞆幕府はどこにあったのか。まさに資料館が位置する高台に存在したのである。
福山市鞆町に市指定史跡の「鞆城跡」がある。
城跡というよりも眺望のよい観光地である。資料館以前には中学校があり、その昔は料亭があったそうだ。眺めがよすぎて勉強にならないだろうから、料亭くらいがちょうどよい。いや、歴史ある場所でゆかりの史料を観覧できる意義のほうが大きいだろう。
資料館の隣には、庭石のように刻印のある石材が置かれている。ここにはどのような歴史があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
鞆城跡
ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が修築した。慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中だったことが知られる。
元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城となり、正則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。
毛利氏が築き、福島正則が修築した城だという。刻印のある石材は福島時代のものだろうか。正則は三層の天守を築き、重臣の大崎玄蕃を配したということだ。徳川家康から「関ヶ原の勝利は大崎が清洲を丈夫に持構へたからだ」(岡谷繁実『名将之戦略』下巻)と褒め称えられた武将である。福島氏改易後に紀州藩士となっている。
将軍義昭はずっと鞆城に滞在していたわけではない。天正四年(1576)から同十年(1582)までは鞆の浦、天正十年から同十三年(1585)までは熊野・常国寺、天正十三年から同十五年(1587)までは津之郷(つのごう)に居住していたようだ。
駐車場から階段を上がると見事な石垣があり、ここでも刻印を見ることができる。説明板を読んでみよう。
鞆城の石垣と刻印
鞆城は毛利氏によって築かれ、関ケ原合戦後に安芸・備後の領主となった福島正則が城郭を整えました。
一九八六年(昭和六一年)に実施した資料館建設に伴う発掘調査により、本丸南西隅石垣の基底部が確認され、これに連なる南北の石垣の復元整備を行いました。また、これに東西に連なる石垣は、資料館地下駐車場の床面と南西の壁に石を配置して、本来の所在を示しています。
なお石垣には「回・大・△」などの刻印が確認されていますが、その解釈には石工や石材採取地を示すなどの諸説があります。
二〇一三年(平成二五年)三月
福山市教育委員会
復元整備されたものだが、往時を偲ぶには十分である。刻印は全国各地で様々な種類が発見されている。何らかを判別したことは確かだが、今一つ分かっていない。
義昭は本当に鯛釣りをしていたのだろうか。今年、鞆の浦名物の観光鯛網が3年ぶりに復活した。義昭以来四百年の歴史があるのかと思ったら、大正十二年(1923)に始まったそうだ。それでも穏健派の義昭様には、のんびりとした鯛釣りがお似合いだと思う。