幕末の万葉調歌人平賀元義について、正岡子規は指摘している。
「元義の歌には妹または吾妹子(わぎもこ)の語を用ゐる極めて多し。故に吾妹子先生の諢名を負へりとぞ。」(『墨汁一滴』)
例として「吾妹子を山北(そとも)に置きて吾(わが)くれば浜風さむし山南(かげとも)の海」を挙げている。
確かに吾妹子には独特の語感があり、この語を置くだけであたりは万葉世界へと一変する。実際の万葉歌にはどのように使われているのだろうか。本日は潮待ちの港、鞆の浦を訪ねたレポートである。
福山市鞆町に「むろの木歌碑」がある。眺望が良好なことで知られる対潮楼の下に位置する。
碑には万葉仮名で歌が刻まれている。このままでは鑑賞できないので、説明板を読むことにしよう。
むろの木歌碑
吾妹子之見師(わぎもこがみし)鞆浦之天木香樹者(とものうらのむろのきは)常世有跡見之人曽奈吉(とこよにあれどみしひとぞなき)
古来、鞆の浦は瀬戸内海交通の中心の港でした。
万葉の時代は遣唐使、遣新羅使などが立ち寄り、いくつも歌が詠まれています。万葉秀歌といわれるこの歌は、730年(天平2年)大伴旅人が大宰府の役人の任期を終えて鞆の浦によったときの一首です。727年(神亀4年)か728年(神亀5年)に任地に向かう時、妻の大伴郎女(いらつめ)と神木のむろの木に海路の安全などを祈ったと考えられます。728年(神亀5年)大宰府で最愛の妻を失った旅人の嘆きが伝わってきます。
大伴旅人が大宰帥として大宰府に赴任したのは63歳ごろ。間もなくして妻が亡くなってしまうから、旅人にとって辛い日々であったろう。だが近くには仲間がいた。
「あをによし」の小野老が大宰小弐、「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」の山上憶良が筑前守、そして「漕ぎゆく舟のあとの白浪」の沙弥満誓が造観世音寺別当として赴任しており、筑紫歌壇と呼ばれる文化集団が形成されたのである。天平二年(730)正月には、令和の由来となった梅花の宴も開かれた。
福山市鞆の浦歴史民俗資料館の前に「大伴旅人歌碑」がある。
帰途、鞆の浦に立ち寄った旅人は妻郎女(いらつめ)と見たむろの木を再び目にする。過ぎた日を思い起こした旅人は、次のように詠じた。
鞆の浦の磯のむろ乃木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
先の歌の吾妹子(わぎもこ)がここでは妹(いも)と表現されている。むろの木を見るたびに、あなたを思い出すことでしょう。裏の碑文には、次のように記されている。
天平二年(七三〇)十二月、大納言兼務となって都に上る大宰帥大伴旅人は、鞆の浦で亡き愛妻を偲ぶ三首の歌を詠んだ。その中の一首がこの歌で、万葉集に載録されている。
鞆の浦の磯に立つむろの木、そのむろの木を見るたびに、ともに眺めた妻のことが忘れようにも忘れられない、と歌う。
旅人は、神亀五年(七二八)の初め大宰府に下ったと思われるが、その途中、鞆の浦のむろの木を妻とともに眺めた。しかし、その妻はまもなくこの世を去ってしまう。その悲しみを、旅人は翌天平三年、六十七歳で没するまで歌い続けたのである。
これまでに紹介した二首のほかに、次のような歌もある。
磯の上に根はふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
むろの木を一緒に見た妻はどこへ行ったのか。聞けば教えてくれるというのか。旅人にとってかけがえのない思い出となった妻との時間。二人が見たむろの木は、どのような樹木なのか。
二つの歌碑の脇にはむろの木が植えられている。ネズというヒノキ科の常緑針葉樹で、迫力のある巨木になることがあるようだ。歌碑は鞆の浦でも特に風光明媚な場所に設けられているが、いったいどこにあったのだろう。
400年以上のむかし、木下勝俊という武将が朝鮮出兵のために西下したが、鞆の浦に立ち寄った際のエピソードを次のように記録している。『九州の道の記』より
さて、見し鞆の浦のむろの木は常世にあれどと詠める何処ぞと尋ね侍りければ、昔は此の浦に在りしを言伝へたれども、今は跡方も侍らねば定かに知る人も候はず。されど、あの磯に在りしなど、ふるき人は申し置きける。いざさせ給へ教へ奉らんという程に罷りたれど、異なる見所もなく、唯波の寄せ来るのみにてぞありける。かく名ある木も跡方なく、何事も昔に変りゆくこそ、物毎に悲しくは侍れ。
さすがは後に長嘯子(ちょうしょうし)として知られる文化人。戦地に向かっているとは思えない雅趣に富んだ紀行文である。「ラジオの神様」浜村淳さんに倣って言えば、長嘯子が聞いても「これは古い!」と感慨に耽るほどだから、むろの木が失われてからかなりの歳月を経ているのだろう。
いま歌碑の側には新しいむろの木が植えられている。この木もやがては巨樹となって、人々の思い出に残る木となるのだろうか。木は失われたり新たに植えられたりと常世にないが、旅人の絶唱は千三百年もの間、歌い継がれている。