唐の太宗李世民の言行録である『貞観政要』は、リーダー論として現代の経営者によく読まれている。ポイントの一つは諫言を受け入れること。
太宗に魏徴という家臣がいた。貞観十三年、天下は太平だが、おごりが目立つようになってきた。これを憂えた魏徴は十か条にわたって問題点を指摘する。もちろん死を覚悟してのことだった。
諫言を聞いた太宗は次のように言った。『貞観政要』第十巻「論慎終第四十」より
人臣の主に事(つか)ふる、旨に順(したが)ふは甚だ易く、情に忤(さから)ふは尤(もっと)も難し。公、朕が耳目股肱と作(な)り、常に論思献納す。朕、今、禍(あやまち)を聞きて能く改む。庶幾(こいねが)はくは克(よ)く善事を終へん。
部下が上司のもとで働くとき、上司の指示に従うのはとても簡単だが、その意思に反するのは最も困難だ。君は私の耳目や手足となって、いつも考えたことを教えてくれる。私は今、自分が間違っていたことを聞いたが、十分に改めようと思う。そして、退任するまできちんとやり遂げたいものだ。
太宗は魏徴の言葉を記録させ、朝夕に仰ぎ見られるよう屏風に仕立てたという。なんと度量のあるリーダーであることか。では、戦国大名尼子氏の場合はどうだったのだろうか。
安芸高田市吉田町西浦に「尼子下野守義勝(久幸)之墓」がある。
尼子義勝は有名な経久の弟で、経久とともに尼子氏の覇権確立に寄与した歴戦の勇士である。出雲を本拠とする尼子氏の墓がなぜ安芸に、しかも毛利氏の本拠近くにあるのだろうか。説明板を読んでみよう。
尼子下野守義勝(久幸)の墓
高田郡吉田町西浦(にしうら)
尼子義勝(あまこよしかつ)は、晴久の祖父経久の弟で、下野守、又の名を久幸(ひさゆき)と称した。
「陰徳大平記」によると、尼子晴久は、尼子氏を離れ、大内氏に属した毛利元就を攻め、芸備両国を平定しようと軍議を開いた。
祖父経久は義勝等老臣と共に、元就は名将ゆえ、もし敗れたならば尼子の名折れになると思い留まるようにと諌めたが、若い晴久は聞き入れず、一五四〇(天文九)年八月郡山城攻めを行った。
老将たちの言に違わず、郡山合戦は尼子軍の敗色が濃厚、翌一五四一(天文一〇)年正月一三日、毛利の援軍の大内勢は、青三井山の尼子の本陣を攻撃、晴久が危うくなった。日頃慎重な下野守義勝は、率先して撃って出、遂に討ち死にを遂げた。
この義勝の奮戦により、晴久は無事出雲に退陣することができたという。この墓は「尼子下野守義勝(久幸)の墓」と伝えている。
一九九七(平成九)年三月
吉田町教育委員会
郡山合戦については以前の記事「毛利氏、飛躍への第一歩」で尼子方部将の最期を紹介したことがある。今度は実質的な総大将であった武将の最期である。説明板にあるように、尼子経久・義勝兄弟は毛利攻めに慎重だったが、若き当主晴久は積極的だった。
尼子氏の軍記『雲陽軍実記』をもとに、戦いに至る経過を追ってみよう。富田へ芸州から井上豊後守が逃れてきた。この男、毛利元就の家督相続に反対し、逆心ありとして誅殺された井上一族の一人だった。井上は次のように尼子晴久に進言した。第一巻「毛利元就来由幷下野守義勝軍謀諫言事」より
元就反逆日々に増長仕り、斯様に捨置れ候ては、備芸石之御幕下は、夜に増し、日に添へ、御敵対仕るべし、勢の増長致さゞる先に、片時も急ぎ候て、御追罰候べし、然るに、義勝公の御軍慮は、余り大義にして、廻り遠き御裁配と社(こそ)存じ候、毛利、吉川、小早川、宍戸、熊谷に国人等少々相加り候とも三千騎には過ぎ候まじ、御勢之一万も指向られ候はゞ仮令(たとへ)元就、太公(周の軍師)、伍子(呉の武人)、孫子が術を得、韓信(漢初の武将)、孔明が奇計を巡らし候とも、一戦に打破り、某等案内仕り、御魁を仕る程ならば、毛利家中にても反心の者も少々可有御座候間、裏切させ、郡山を追落ん事、方寸に覚候
これを聞いてすっかりその気になった晴久に対して、大叔父の義勝は涙を流しながら、このように諫めた。
井上は元就に一類を亡され、其遺恨を当家の武威を借て散ぜんと思ふ故、毛利退治を指し急ぐなり、何ぞ彼等が如き小人の諫を誠として大義を誤り玉ふな、能く軍機を調へ、芸州には赴き玉へ
しかし、晴久は「先んずれば人を制す、と言います。私が先発しますから、大叔父殿にはご老体のご苦労があろうかと存じますが、国人等を集めて追って出陣願います。」と言って取り合おうとしなかった。その結果は説明板のとおりだ。『雲陽軍実記』は次のように結んでいる。
惜ひ哉、下野守義勝公の金言、空くなる事を、伍子胥(ごししょ)死して呉亡び、范増(はんぞう)死して項羽亡ぶ、義勝公吉田に戦死有て尼子家の柱石砕たり、と後に社(こそ)思ひ知られたり
義勝公を古代中国の諫臣と並べ、その死を惜しんでいる。ただし、井上豊後守が登場するくだりは『雲陽軍実記』の脚色である。井上一族が誅殺されるのは天文十九年(1550)のことで、時系列が正しくない。
しかし、尼子義勝が経久とともに長年の経験から晴久を諫めたのは事実だろう。慎重に事を運ばなかったばかりに、結局は毛利氏の軍門に下ってしまった尼子氏。『雲陽軍実記』の筆者がしみじみと述懐しているのは、義勝の諫言の正しさとそれを聞いたリーダーの器であった。