わらの家、木の家、レンガの家のうち、一番安心なのは?「三匹の子ぶた」が語り伝える教訓である。風で吹き飛ばされないレンガ造りが安心なのは、イギリスに地震がないからだ。腑に落ちるこの話は、日本にはやはり木の家が適していると続く。
ところが我が国にも石を積み上げた部屋があり、台風にも地震にもビクともしない。もっとも普段使いの家ではなく、死者の部屋である。巨大石室は各地方にあるが、本日は但馬最大の横穴式石室を訪ねたのでレポートする。
養父市大薮に「禁裡塚(きんりづか)古墳」がある。
それほどには見えない開口部から石室に入って驚いた。巨大な空間と精緻な石積みである。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 禁裡塚古墳
指定年月日 昭和61年3月25日
所有者・管理者 吉井誠一
南に伸びる小尾根の先端に造られた古墳で東西約32メートル、南北約34メートルのやや楕円形をした大型の円墳である。
横穴式石室は、両裾式で東に開口し、全長12.5メートル、玄室の長さ5.9メートル、幅3.0メートル、高さ3.5メートルあり、但馬最大規模を誇る。玄室壁面には、赤色顔料(ベンガラ)が塗られており、装飾付須恵器の破片も出土している。古墳時代後期の6世紀後半に築かれた但馬を代表する古墳である。
大藪には大型の古墳が集中しているところから、付近に但馬最大級の政治権力(首長)の存在が考えられている。
平成5年11月 兵庫県教育委員会
古墳のスケールは政治権力の大きさを示す。但馬最大規模を誇る横穴式石室の被葬者は、やはり但馬最大級の政治権力をもつ首長であろう。
禁裡塚古墳の東方360mくらいの地点に「塚山古墳」がある。
ヌッと盛り上がった山のような塚である。石室には大きな石材が使われている。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 塚山古墳
指定年月日 昭和63年3月22日
所有者・管理者 久保田日出男
南に伸びる尾根の先端に造られた古墳で、墳丘は、南北約30メートル、東西約24メートル、高さ8メートルの円墳と考えられているが、南北約46メートルの大型方墳とみることも可能である。
横穴式石室は、両袖式で南東に開口し、全長11.2メートル、玄室の長さ4.8メートル、幅2.5メートル、高さ3.6メートルある。奥壁は3段の石積みで、玄室の天井には巨石1枚が使われている。石室壁面には、赤色顔料(べンガラ)が塗られている。古墳が築かれたのは、古墳時代後期の6世紀後半と考えられている。
平成7年2月 兵庫県教育委員会
築造時期は6世紀後半だが、禁裡塚古墳の次に築かれたのだという。
禁裡塚古墳の西方360mくらいの地点に「西ノ岡古墳」がある。3基の巨大古墳がバランスよく並んでいる。
墳丘が痩せているので外見の迫力はないが、石室は負けず劣らずの大きさだ。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 西ノ岡古墳
指定年月日 昭和63年3月22日
所有者・管理者 坂本宏
北から南に下がるゆるやかな斜面に造られた古墳である。外形は円墳で、規模はかなり損なわれているためはっきりしないが、径約32メートルとも、あるいは径22メートルとも考えられている。
横穴式石室は、両袖式で東に開口し、全長13.6メートル、玄室の長さ5.0メートル、幅2.6メートル、高さ3.0メートルである。奥壁は巨石を2段に積んでいる。羨道は、入口部がこわされていて、石もわずかしかないが、羨道の長さが玄室よりも長いのが特徴である。古墳が築かれたのは、古墳時代後期の7世紀初頭と考えられている。
平成7年2月 兵庫県教育委員会
塚山古墳の次に築造された。どうやら権力基盤は揺らいではいないようだ。
塚山古墳のすぐ近くに「こうもり塚古墳」がある。塚山とこうもり塚の被葬者は親子ではないかと推測されている。
古墳の盛土が失われ、石室がむき出しになっている。有名な石舞台古墳のようなものだ。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 こうもり塚古墳
指定年月日 昭和63年3月22日
所有者・管理者 平山公俊他7名
こうもり塚古墳は、山麓の平坦部に造られた古墳で、外形はかなり損なわれているが長辺約28メートル、短辺約23メートルを測る大型の方墳と考えられている。
横穴式石室は、右片裾式で南東に開口し、全長12.4メートル、玄室の長さ7.1メートル、幅1.8メートル、高さ1.8メートルある。奥壁は巨石を2段に積んでいる。古墳が築かれたのは、古墳時代後期の7世紀前半と考えられ ている。
なお、背後の山には塚山古墳があり、大型の古墳が隣接して造られていることから2つの古墳の被葬者には、非常に密接な関係が推測される。
平成5年11月
兵庫県教育委員会
7世紀前半といえば聖徳太子から大化の改新の時代である。大薮古墳群の但馬の王は、進みゆく中央集権化にどのように対応したのだろうか。
改めて但馬の古墳時代を振り返ってみよう。5世紀には和田山地域に池田古墳(前方後円墳)や茶すり山古墳(円墳)が築造されたが、この地域にその後、巨大古墳は出現しなかった。代わって養父地域に本日紹介した巨大石室墳が6世紀に登場するから、権力交代のドラマがあったのかもしれない。
養父市といっても広いが、ここ大薮は古代は養父郡養父郷に属していた。やぶやぶのおおやぶだから、地域の中心地だったに違いない。4基の巨大石室墳は養父で最も養父らしい存在だと言えよう。
石室の高度な技術はなぜ住宅に生かされなかったのだろう。盛り土がなくては不安定だからだろうか。盛り土があれば風通しが悪くなるからだろうか。単に木のほうが使い勝手がよかったからかもしれない。
建材の豊かさとその柔構造は確かに日本の風土に適している。しかし千数百年前のむかし、禁裡塚に見られる高度な石積み技術が我が国にあったことを忘れてはならない。わが国最古の現存建造物は石造なのである。
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