戦うための施設だった城跡と平和に憩うための公園の親和性はたいへん高い。このブログでも福山城公園、鶴山公園、明石公園などを採り上げた。福山城は築城400年を機にリニューアルされたし、鶴山公園は「さくら名所100選」の地として有名だ。明石公園は兵庫県立公園となって市民に親しまれている。
豊岡市京町の神武山公園に「豊岡城跡」がある。冒頭で紹介した公園には城跡らしい櫓があるが、ここには遺構がほとんどない。平坦面が曲輪なのだろうが広場にしか見えない。
写真には「本丸跡」の標柱が右端に小さく、左端には「天守台跡」の標柱と説明板が写る。晴れていれば絶景を堪能できただろう。この眺望の良さは城地選定の決め手である。どのような武将がここを守ったのだろうか。説明板を読んでみよう。
豊岡城
神武山(標高49m)の名は、明治5年(1873)の神武天皇遙拝所設置によるが、山容から亀城・亀山、城の所在から城山とも呼ばれる。
伝承では、15世紀中ごろ、九日市に守護所を置く但馬守護山名宗全がこの山に築城、被官垣屋氏に守らせたという。戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及び、この城(当時は城崎城と呼んだ)は但馬支配の中心拠点となった。
天正8年(1580)羽柴勢の但馬占領によって旗下宮部善祥房が入城、木下助兵衛尉、明石与四郎、福原右馬之助と続き慶長2年(1597)杉原長房に至った。
承応2年(1653)、杉原家断絶により城は破却されたと見られるが、本丸・萩の丸・笠の丸の他、天守台などの遺構が残された。
寛文8年(1668)、京極氏代に入ると、城山は城郭遺構を保持したまま陣屋及び城下町の象徴となった。
豊岡城こそは、豊岡市の中世・近世における歴史的原点である。
武将がたくさん登場するが、最も知られているのは山名宗全だろう。守護所は市街地南部の九日市(ここのかいち)あった。だが宗全の死後、山名四天王の一人垣屋続成(かきやつぐなり、他は田結庄是義、八木豊信、太田垣輝延)が勢力を拡大する。旧日高町域を本拠としていたようだが、城崎城と呼ばれた豊岡城も重要な拠点としていたと思われる。
やがて西から毛利氏、東から織田氏の勢力が拡大すると、山名四天王は二派に分かれる。垣屋続成は毛利氏についたが、織田方の田結庄是義に討たれた。続成の孫光成は織田方(羽柴勢)に降り、その後、豊臣系大名として活躍する。
秀吉による但馬平定後に豊岡城に置かれたのは宮部継潤(けいじゅん、善祥房)。その後の因幡攻略後に鳥取城を任される豊臣系大名である。木下祐久(すけひさ、助兵衛尉)は秀吉の縁戚らしい。明石元知(もととも、与四郎、則実とも)は黒田官兵衛の縁戚らしい。福原直高(なおたか、右馬之助、長尭とも)は石田三成の縁戚らしい。
その次の杉原長房も秀吉の縁戚で関ヶ原では西軍に属したが、浅野長政のとりなしで近世大名として存続した。長房のあとは重長、重玄と続いたが、無嗣断絶により改易となった。豊岡城は廃城となり、その後入封した京極氏は北麓に陣屋を構えた。
次々と交代した城主のうち、地元との密着度が強いのは垣屋氏だろう。しかし、垣屋氏そのものに不明な点が多く、城崎城と呼ばれた山城の威容も今となっては知る由もない。ただ本丸の眺望だけが戦国の居城にふさわしかったことを伝えている。
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