自己啓発本が売れるのは米国と日本ばかりで、欧州にはあまりないそうだ。有名な古典『フランクリン自伝』は自己啓発本の元祖で、要はおじさんの自慢話なのだという。
自慢話が好きなおじさんは、確かにセルフイメージが高い。俺ってすごいぜ、と他人にアピールするかどうかは別だが、そう思うことは精神衛生上好ましいことだろう。
情熱の万葉歌人、平賀元義もセルフイメージの高い人だった。技巧や虚飾を嫌い、ありのまま思いのままをドラマチックに表現する俺、すごいぜ。本日は元義の生誕地からのレポートである。
倉敷市玉島陶に「平賀元義生誕之地」がある。
父方の先祖については以前の記事「四重堀切で防御する山城」で紹介した。母は備中陶村の百本氏の出身である。副碑を読んでみよう。
万葉調歌人・平賀元義は寛政十二年(西暦一八〇〇年)に岡山藩士平尾長春の長子として母の実家・玉島陶で出生。三十三歳で脱藩し、備前、備中、美作などの各地を流浪した。
古学を好み賀茂真淵に私淑。豪放かつ繊細。虚構を嫌い古今・新古今調が主流の中、万葉の調べでおおらかに詠いあげた。尊皇の志篤く、抒情歌に秀でる一方、異色の相聞歌によって恋の平賀元義、我妹子先生とも呼ばれた。
正岡子規は「万葉以後一千年の久しき間に、万葉の真価を認めて万葉を模倣し、万葉調の歌を世に残したる者、実に備前の歌人平賀元義一人あるのみ」と絶賛した。
柞葉(ははそは)の母をおもへば児島の海逢崎の磯なみたち騒ぐ
大君の加佐米(かさめ)の山のつむじ風ますらたけをの笠ふきはなつ
五番町名橋の上にわが魔羅を手草にとりし吾妹子あはれ
平成二十六年一月二十八日建立
玉島文化協会 たまテレいわお財団
平賀元義生誕碑建立実行委員会 有志一同
正岡子規に激賞されてメジャーデビューした。さすが才人は才人を見出すのだ。引用されている元義絶賛の一文は、有名な随筆『墨汁一滴』を出典とする。紹介されている三首の歌も掲載されているが、少々表記が異なるようだ。
五月三日望逢崎
柞葉の母を念へば児島の海逢崎の磯浪立ちさわぐ望加佐米山
高田の加佐米の山のつむじ風ますらたけをが笠吹きはなつ五番町石橋の上で我○○をたくさにとりし我妹子あはれ
児島の逢崎というのは玉野市八浜町大崎のことで、目の前は広大な干拓地となり、実りの季節には稲穂が揺れるばかりだ。広々とした風景に懐かしい母の面影が浮かんだのかもしれない。
加佐米山は笠岡市の応神山で笠目山とも書く。ここで狩りをしていた応神天皇が強風に笠を飛ばされたというエピソードが残る。このアクシデントは実は吉兆で、このあと獲物がたくさんとれ、喜んだ天皇は地元豪族に「笠」の名を与えたという。
三番目の歌は子規が伏字にするほど下品なのだが、どのように評価すればよいのだろう。子規は「歌としては善きも悪きもあれどとにかく天真爛漫なる処に元義の人物性情は躍如としてあらはれ居るを見る」と、持て余した歌を元義の人物評でまとめている。
この三首は元義の代表的作品というわけではない。一首目は生誕地にふさわしい母を思う抒情歌だが、児島大崎はここからかなり東に位置する。二首目はますらをぶりの典型として選ばれたのだろう。三首目はそれこそ天真爛漫な歌である。要するに元義の作品群の幅広さを示したかったのではないだろうか。世に万葉の花を咲かせたのは平賀元義、その人であった。