「忠臣」と聞いて思い浮かぶ日本史上の人物は?と「WEB歴史街道」が調査したところ、次のようなランキングになったという。大石良雄(内蔵助)、楠木正成、豊臣秀吉、石田三成、弁慶、直江兼続、真田幸村(信繁)、黒田孝高(官兵衛)、乃木希典、平重盛。
驚くべきことに、かつては正成と並んで忠臣の鑑と評された児島高徳がランクインしていない。「時に范蠡無きにしも非ず」は、衷情を伝える名句として人口に膾炙している。なのに…。本日は忠臣として国を挙げて顕彰された頃の高徳に会いに行くこととしよう。
赤穂市坂越の船岡園に「児島高徳墓」がある。五輪塔が柵で厳重に保護されている。
拝所に標柱が二本あり、右側には「贈正四位児島高徳朝臣」、左側には「贈従三位児島高徳卿」と刻まれている。「卿」は三位以上の貴人に他する敬称である。
正四位は明治16年、従三位は同36年に贈られた。同44年の南北朝正閏論を経て、大正3年(1914)に児島高徳五百五十年祭に合わせて、墓所周辺が船岡園として整備された。
すぐ隣に「児島贈従三位之碑」がある。児島高徳の顕彰碑で、篆額はあの東郷元帥、撰文は赤穂藩の儒者赤松滄洲である。
備後三郎碑
元帥海軍大将従二位大勲位功一級伯爵東郷平八郎篆額
三郎君諱高徳児島氏備後守範長子也故称備後三郎当南北戦争之日
父子並専致力於南朝忠誠之篤名節之美詳載国史而莫知君所終也以
墓在此地而考之熊山之敗君中大創以父命不得已乃寓妙見寺創已瘳
出与新田兄弟合謀屢攻尊氏不利新田氏亡君又与小山桃井上杉石堂
輩共戮力図克復然而天之所廃不可支矣身亦已老於是乎削髮為僧自
号義清房志純盖以与寺僧有旧退隠此寺以終焉銘曰
元享之末 皇綱幅裂 昊天不弔 下民多孽
女謁盛行 政出饕餮 姦雄乗虚 宗社衰絶
謀臣力微 国恥不雪 運傾祚移 動失俊傑
赤心報国 至深至切 惟此片石 永伝大節
天明九年己酉春正月 赤穂藩儒 赤松鴻撰文
大正三年五月
錦鶏間祗候貴族院議員従二位勲一等男爵野村素介書
備後三郎は俗名を高徳といい、児島氏である。備後守範長の子であるため備後三郎と称した。南北朝争乱では父子ともに南朝方で力を尽くした。その篤い忠誠心、名誉と節操を重んじる心根の美しさは、歴史書に描かれているが、終焉地については不明である。この地にある墓を手掛かりに考えてみたい。熊山で敗れて負傷した高徳は、父の命でやむを得ず妙見寺に身を寄せた。傷が癒えると新田兄弟と共に尊氏と戦ったが利あらず、新田氏亡き後は、小山、桃井、上杉、石堂らと共に挽回を図った。しかし天運が尽き、持ちこたえられなくなり、自身もまた老いてしまった。髪をそって僧となり、自ら義清房志純と号した。おそらく、妙見寺とは旧知の間柄だったから、この寺に隠棲し、生涯を終えたのであろう。銘して曰く、
元亨末年の頃から、皇統が分裂した。天は見放し、世は乱れた。
宮中では公私混同、政治は魔物に喰われたかのようだ。悪知恵の働く者が隙を突き、才智ある者はいなくなった。
計略に巧みな者の力は弱く、国の恥は雪がれないままだ。運が傾き皇位は移り、ともすれば優れた人材は失われがちだ。
国に報いる真心を、深く身にしみて感じることができる。この石碑で、忠節を長く伝えていきたい。
児島高徳のその後には不明な点が多いが、坂越の古刹妙見寺と絡めてストーリーをつくっている。果たしてどこまで真実に迫っているだろうか。
碑の裏面にも文字がびっしり刻まれている。書き写しておこう。
碑陰記
塔在此地旧矣不知何人所造里人相伝称備後三郎墓而莫知其果然否往
年嘗試穿其陥地処則有題字曰義清房志純傍書正平二十年乙巳五月十
三日按太平記綱目載三郎後改号義清房志純正平是南朝紀年其二十年
即北朝貞治四年也於是乎始知伝言之不妄云近大西吉包恐其久而不可
識因建碑其傍請余記其由余乃書其大略遂為之銘
天明九年己酉春正月 赤穂藩儒 赤松 鴻又識
神武天皇即位紀元二千五百七十四年
児島贈従三位旧趾保存会名誉会員藤野静輝
贈従三位児島高徳卿嚮賜船岡神社社号為官幣大社
吉野宮摂社而此地有此墳久属荒頹今也郷党胥議修此墳建此碑以報
皇恩之万一也今春偶訪滄洲先生古居静思亭発見此遺文因以為闡幽紀念
明治四十三年五月十三日
児島贈従三位旧趾保存会名誉会員奥藤研造謹撰
贈従三位児島高徳卿五百五十年祭紀念碑建設敷地三千坪修補開拓費
金七千余円家君出資所落成也春花秋月千万億年
大正三年五月十三日
贈従三位児島高徳卿旧趾保存会長奥藤謹治拝誌
塔はこの地に古くからある。誰が造ったのかは分からないが、里人は備後三郎の墓だと伝えている。その昔、窪地を掘ると墓誌が出てきた。そこには義清房志純とあり、傍らに正平二十年乙巳五月十三日と記されていた。『太平記』の注釈書『太平記綱目』には「三郎、後改めて義清房志純と号す」と記されている。正平は南朝の元号で、その二十年はすなわち、北朝の貞治四年である。これで伝説が嘘ではないことが分かったという。
そうなのかもしれないが、一般に認知されるに至っていない。それでも、そうとも理解できるのだから、仮説として尊重しておくことにしよう。
茶臼山に登ると「和田備後守範長公一族五霊位の墓所」がある。和田備後守範長とは、児島高徳の父で、先の碑にも登場している。
少し離れているのが和田備後守範長の墓碑である。新しい墓碑の後ろに古そうな石が置かれている。どういうことだろうか、説明板を読んでみよう。
和田備後守範長公一族五霊位の墓所
建武中興(南北朝六六〇余年前)の直後、「源氏の武家政治」の復活を志す足利尊氏は、「国民の福祉」を優先する後醍醐天皇の信頼をうらぎり、九州に逃れ二十万の大軍を催し、都へ向けて東上しました。備前熊山の城主児島高徳公の義父、和田範長公は、尊氏方へ恩賞の勧誘を断り、勤王の旗印を掲げ大義名分を重んじ、後醍醐天皇に味方して各地に転戦官軍脇屋義助公の本隊に合流しようと坂越浦へたどりつきました。熊山城の夜戦で重傷の高徳公を妙見寺の僧に託し、八十三騎の手勢を率い那波浦を駆け抜け、赤松円心の追手勢と十数回の合戦の末、カつき、延元元年四月二十二日、阿弥陀が宿の辻堂で一族五名自害討死しました。敵将宇野重氏は大日寺で懇ろに葬礼を指示し、遺骨を郷里へ送り届けまし た。(太平記)
昭和五十五年四月十八日、此の地で五墓の五輪塔を発掘、地輪石を原状の儘保存、当時の住僧が遺骨を埋葬した事を考証しました。
墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。
平成七年六月二十二日、岡山の施主家のご芳志により、新五輪塔五基が奉納されました。
平成七年七月吉日
宝珠山妙見寺
児島高徳卿旧蹟保存会
坂越のまち並みを創る会
後醍醐天皇が「国民の福祉」を優先していたかどうかは再考の余地があるが、ストーリーとしては理解できる。和田範長の墓所については以前の記事「命の限り、尽くした誠」で紹介した。自害討死した場所が「六騎塚」で、遺骨が送り届けられ埋葬された場所が、ここ茶臼山だということなのだろう。
ただし、和田は備前国邑久郡射越村の枝村である和田村『日本歴史地名大系34岡山県の地名』、今木は瀬戸内市立今城小学校、中西は邑久町北島の小字『角川日本地名大辞典33岡山県』、松崎は岡山市東区西大寺松崎との関連があるという。今の瀬戸内市邑久町、岡山市東区西大寺地区の地名が並ぶ。本貫地はこのあたりだろう。
南朝忠臣としてもてはやされた児島高徳も今や昔。不忠の極みと評された足利尊氏が今夏、垣根涼介『極楽征夷大将軍』で第169回直木賞を受賞した。「やる気なし、使命感なし、執着なし」がキャッチコピーだ。
児島高徳も天下無敵のヒーローとは程遠い。必死に頑張るのだが、いつも悔しい思いをしている。その様子は「杉坂へ着きたりければ」と「桜に託したメッセージ」でレポートした。何をやってもうまくいかない、今のご時世。児島高徳公も小説で復権できるのではないか。
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