時は寿永三年二月十八日、一ノ谷の戦いによって源氏による畿内掌握が確実となった頃である。この日の『吾妻鏡』は次のように記録している。元暦元年二月十八日条より(※寿永三年はこの年元暦に改元)
十八日、丁丑、武衛被発御使於京都、是洛陽警固以下事所被仰也、又播磨、美作、備前、備中、備後、已上五箇国、景時実平等、遣専使可令守護之由云々、
畿内の次に播磨、吉備を押さえるため梶原景時、土肥実平という有能な御家人が派遣された。さらに三月廿五日条には、次のような記述がある。
廿五日、甲寅、土肥次郞実平為御使、於備中国行釐務(りむ)、仍在庁散位藤原資親已下数輩、還補本職、是為平家失度者也、
土肥実平は備中で政務を行い、平家によって追われた藤原資親らをもとの職に復帰させた。実平は確かに備中で活動したようだ。
総社市八代(やしろ)に四等三角点「木村山」があり、標高は200.7m、一帯は「木村山城跡」である。木々が私の視界を遮っていたが、北に新本川流域、南に小田川流域がよく見渡せるそうだ。
頂上から南に伸びる尾根に曲輪がいくつも連なり、山陽道に目を光らせる要衝のように見える。『吉備郡史』巻中第三編近古第六十六章「戦国時代の諸城砦」では、次のように紹介されている。
木村山城。神在村大字八代に在り。
元暦中播磨美作備前備中備後五ヶ国守護土肥次郎実平之に居る(鎌倉時代の城砦)
なんとこの城は、西国五か国の守護を任されていた土肥実平が居城していたというのだ。地域の中枢機能が置かれていたのである。本当か? これについては、江戸中期の地理学者、古川古松軒が『吉備之志多道』で、次のように批判している。
喜村山の古城 八代村嵯峨野村の境にあり
備中古城記に、城主土肥次郎実平頼朝卿より五ヶ国の守護職を賜ひて在城せりとあり。甚しき虚説なり。此山独立にて峰つゞきなくて、水の便なき山なり。五ヶ国の守護人何の益かありて、かゝる不便の山に在城すべきや。
水の不便なこの山に西国五か国の太守が居ただろうか、という疑問を呈している。確かにそうだろう。では、この城は何なのか。中島元行が著した江戸初期の軍記『中国兵乱記』「義稙公中国御政道并二階堂政行備中在国の事」には、次のような記述がある。将軍義稙が備中へ近侍の奉公衆を派遣したのである。
国侍を御身方に引入候様にとの上意にて、上野民部大輔は下道郡下原郷鬼邑山に在城、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村高越山に在城、二階堂大蔵少輔政行は浅口郡片島に在城。
さらに「同国荒平山城主川西三郎左右衛門事」によれば、備中兵乱における鬼身城包囲戦で、毛利軍は次のように布陣したという。
小早川隆景は下原郷伊世部山の構へ入城、毛利元清は鬼邑山へ入城仕り給ふ。宍戸備前守は羽入道山に構陣城、
著名な毛利武将が登場したが、毛利の城にしては心許ない構えだ。羽入道山こと馬入山(ばにゅうざん)にも行ってみよう。木村山から尾根に沿って進めばよい。
倉敷市真備町市場に「馬入堂山城跡」がある。馬入道山城とも書く。
説明板があるのはいいが、褪色してさっぱり読めない。江戸中期の地誌『古戦場備中府志』下道郡十郷には、次のように記されている。
場入堂山城 嵯峨野村
当城草創御友別。
釈日本紀云、応神天皇妃兄媛吉備臣の祖御友別の妹也。又後天皇歌曰、吉備那流伊慕塢阿比莬流慕能(キビナルイモヲアヒツルモノ)(前後略し訖)。
城を築くのは武将が相場だが、伝説上の人物が登場した。応神天皇が吉備なる妹と愛した妃兄媛の兄ミトモワケ、吉備氏の祖である。隣の木村山城を有力御家人で五か国守護の土肥実平が築いたと驚いていたら、馬入道山城は吉備氏のご先祖さまが築いたという。この地はまさしく吉備の中心地だったのだ。
これを批判したのが先の古川古松軒である。再び『吉備之志多道』からの引用である。
馬入道山の古城 嵯峨野山
備中古城記に大なる妄説を顕す。取る所なき故に爰に略せり。当城は上野肥前守城主として、その身は備前児島常山にありて、家臣を以て番城とす。所謂三宅左馬允・三宅左馬介・佐々井伊賀・塩見河内・白神右京等、守城せしなり。天正年中芸軍発向の時に、当城をはき捨て、児島につぼみしといふ。
「備中古城記」は『古戦場備中府志』のことだろう。応神天皇の義兄というビッグネームが登場したのに大なる妄説と切り捨てている。冷静に考えればそうだろう。児島常山城を枕に討死した上野隆徳が城番を置いていたという見立ても妥当だと思われる。
おそらくは三村氏に味方した上野一族の城だったのだろう。しかし、西国五か国守護だとか吉備氏祖だとか、ビッグな築城者の伝承が興味深い。この地味な城跡が吉備の中心地だったという想像も楽しいではないか。まさかとは思うが、何か真実があるのかもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。