備前の戦国は福岡合戦に始まる。城下町岡山以前、中世備前の中心は商都福岡であった。その繁栄は『一遍聖絵』に描かれている通りだ。ここを巡って争ったのは、大きく捉えれば山名氏VS赤松氏であるが、実際は松田氏VS浦上氏であった。権勢を誇ったこれらの一族は、いずれも戦国が収束する頃には没落していた。
岡山市東区瀬戸町塩納に「松田元成及び大村盛恒墓所」がある。
松田氏は西備前の雄として権勢を誇った戦国大名である。その中興の祖と位置付けられるのが松田元成で、富山城から金川城に本拠を移し東備前に進出しようとしていた。説明板を読んでみよう。
岡山県指定史跡
松田元成(まつだもとなり)・大村盛恒(おおむらもりつね)墓所
昭和34年3月27日指定
金川城(岡山市北区御津町)に本拠を構えていた松田左近将監元成は、文明十五年(一四八三)末から文明十六年(一四八四)の初めに福岡城(瀬戸内市長船町)をめぐる攻防戦である福岡合戦で勝利を得たが、つづく天王原(瀬戸内市長船町)の戦いに敗れた。手傷を負った松田元成は、東備前の拠点であった山の池まで引き上げたが、そこで力尽きて自刃した。(伝:文明十六年二月八日)
元成の輩下である大村出雲盛恒は、雲州(島根県)の尼子家へ援助を頼みにいき、帰ってみれば元成は自刃していたので追腹を切って殉じた。
この墓は、元勝(元成の子)が建てたと云われている。向かって右の無縫塔が元成の墓、左の宝篋印塔が盛恒の墓で室町時代の特色をよく現している。
平成23年3月 岡山市教育委員会
後ろ盾は備後守護家の山名俊豊(守護政豊の子)である。山名・松田連合軍が対峙するのは、福岡城主浦上則国、その後ろ盾は重臣浦上則宗、播磨守護赤松政則である。戦国初期の構図がよく分かる。
勝利したのは山名・松田連合軍である。山名勢は引きあげて行ったが、松田勢はこの勢いで三石城を攻め取ろうと戦いを続けた。好事魔多し。天王原で深手を負った元成は、この地に引き上げ自刃したという。
当主を失った松田氏だが、後継の元藤が家中をよくまとめて勢力を維持し、浦上氏との対立は続いた。備後山名氏が衰えた頃には浦上氏と友好な関係を築き、赤松家中で重きをなしたこともあった。しかし、尼子氏が進出するとこれに味方して浦上氏に対抗するが、最終的には浦上氏の家臣宇喜多氏に滅ぼされることになる。
無縫塔と宝篋印塔は、松田元成の子元藤が建てたという。かなり質の良い花崗岩なのか、野ざらしなのに今も美しいフォルムを保っている。元藤の権勢を象徴するかのようだ。西備前の雄、松田氏を偲ぶ縁として貴重な石塔である。