今月3日に十二代目市川團十郎が亡くなった。「勧進帳」の弁慶役をテレビで見たことがあるばかりだが、歌舞伎の持つ迫力と美しさを見事に表現する名優であった。これまで歌舞伎に関心を払うことなく過ごしてきたが、近年になって興味が湧いてきた。そんな折の逝去で誠に残念に思う。
出雲市大社町杵築北に「歌舞伎元祖 出雲お国墓」がある。
出雲阿国については、中村勘三郎さんが亡くなった際に「天下一の歌舞伎役者」というタイトルでもレポートしている。今回は彼女の墓についてだが、写真正面の石柱は墓碑ではなく標柱である。墓石はその手前の石なのだ。地元の研究家が書かれた本(大谷從二『出雲の阿国』松江今井書店)を読んでみよう。
阿国の墓碑ではっきり銘を彫ったものはものは発見されていないが、野津左馬之助氏の前記調査報告にも、現在大社町大字杵築西字太鼓原の丘上に位する中村家代々の墓列の中にありて上面平かなる自然石がそれに当るとされ、「この墓は建造以来移転等のことなく中村家に於て如在の礼奠を尽せり」と記されている。竿石のない平たい台石ばかりの墓碑は江戸初期のこの地方の墓制の一形式であったらしく国造家の墓碑をはじめ社家の墓碑にもこの形式のものがある。
「野津左馬之助氏の前記調査報告」とは、昭和4年に島根県が発行した「島根県史蹟名勝天然記念物調査報告第三輯」のことで、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧できる。これに墓石の見取図が掲載されており、上から見ると三角形、横から見ると逆三角形をしていることが分かる。
阿国の墓域で有名な女優さんの名前を見つけた。
初代水谷八重子は勲三等宝冠章受賞の新派女優である。彼女は20代の頃に阿国の墓に詣でている。上記『出雲の阿国』を読んでみよう。
昭和七年五月、水谷八重子丈が巡業の途中、このお墓に詣でられ、この墓地があまりに荒れ果てているのを嘆かれたのが機縁となり、墓所修復期成会「劇祖阿国会」が結成され、この墓所も修復された。
阿国は中村三右衛門の娘で、資性温雅にして容姿婉麗だったという。出雲大社の巫女となってから勧進のため諸国を巡業し、美しく大胆な衣装と舞により上方で評判を得た。全盛期以外は確かな記録がなく、伝承によると晩年は出雲で過ごしたということだ。
出雲市大社町杵築東に「阿国寺“連歌庵”」がある。
ここも阿国ゆかりの史跡である。説明板を読んでみよう。
歌舞伎の始祖として一世を風靡した出雲阿国は、晩年は大社に帰り、尼僧「智月」となり、読経と連歌に興じて静かに余生を過ごしたと言われています。そのため、この草庵は阿国寺“連歌庵”と呼ばれるようになりました。連歌庵はもともと中村町にありましたが、中村の大火で焼失して、二代目は明治4年、廃仏毀釈によって取り壊され、昭和11年、「劇祖阿国会」によって再建されました。
連歌庵が再建された昭和11年当時、歌舞伎界に「市川團十郎」はいなかった。「劇聖」と呼ばれた九代目團十郎が明治36年に亡くなってから昭和37年に十一代目(十二代目の父)が継ぐまで、この大名跡は空席であった。ちなみに「十代目」は、九代目の養子で十一代目の養父である五代目市川三升が、昭和31年に亡くなった際に追贈されたものである。
亡くなった十二代目には、優秀で話題に事欠かない市川海老蔵がいる。引き締まった顔立ちと体格の良さは舞台に映える。早ければ2019年にも十三代目が誕生するのではと聞いた。阿国さん、あなたが始めた歌舞伎は400年の時を経て益々盛んになっていますよ。