シダレグリには伝説がつきもののようだ。長野県上伊那郡辰野町では弘法大師が栗の実を分けてくれたお礼にと枝を垂らしたという。岡山県真庭郡新庄村では後鳥羽上皇が箸に使った栗の枝を逆さに挿したものが枝垂れ栗となったという。
相生市若狭野町雨内に「和泉式部旧跡」と刻まれた碑がある。ここにも枝垂れ栗の伝説がある。
和歌も刻まれているが写真では見えにくい。どのようなゆかりがあるのか、説明板を読んでみよう。
平安時代、女性として恋の心理葛藤を数多く詠んだ和泉式部の歌とされている。
和歌の道を探し求めて、この雨内村にやってきたが、おりあしく雨に降られて一本の栗の木に身を寄せる。すると、栗の枝が傘のように枝垂れて雨を凌ぐことができたという。この雨宿りが、生き別れになっていた娘小式部との巡りあいのきっかけとなる。小式部は幼くして拾われて、この雨内村の長者に養われていたのだと伝承は説明する。全国に点在する和泉式部伝承の一つである。
「苔莚敷島の道に行きくれて雨の内にし宿り木のかげ」は、「雨宿り」と「やどり木」とを掛けていて、平安朝の風味を伝えている。が、この歌、和泉式部家集にはない歌である。大正四年、地元黒田氏の建立。
雨宿りをしたところ、傘のように枝が垂れたという。「敷島の道」とは和歌のことで、歌枕を求めてここまで来たという。そして、娘の小式部に巡り会うのだが、その前に、娘と「生き別れ」になっていた理由を説明しておこう。
式部は和泉守・橘道貞の妻となり小式部内侍を儲けるが、道貞と破局した際に小式部を捨てた。たまたま都に上っていた若狭野村の長者、森五郎太夫は捨子の女児を拾って帰り、育てたのであった。そこに和泉式部がやってくる。続きは『兵庫の伝説』(角川書店)で読んでみよう。
書写山に参詣して若狭野までやってくると、小川のほとりで蚕の繭を洗っている娘がいたので「その綿は売るか」とたずねると、姫が即座に「秋川の瀬にすだきたる鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と歌を詠んだので式部がほめると、さらに「秋鹿のははその柴を折りしきてうみたる子こそこじかとはいへ」と詠ったので、それが娘であることを知って都へつれ戻った。(うるかとは鮎のはらわたの塩漬けのこと)
式部 「その綿は売っていただけるのかしら」
小式部 「売るかどうか聞きたいのね。ウルカなら鮎のお腹の中にあるわ」
式部 「まあ、びっくり。あなたそんなこと言えるのね(ここな子めか、よみたり)」
小式部 「子女鹿(こめか)っていうのはね、母鹿が愛情込めて敷いた柴で産んだ子鹿よ。産んだ子を捨てるなんて、ありえないわ」
小賢しい小式部なら、それくらいは言ったかもしれない。旧跡の説明板は掛詞を「平安朝の風味」と言うが、商取引(売るか)と魚のはらわた(ウルカ)を掛けても、情味が豊かになるとは思えない。「大江山いく野の道の…」の歌で見せた当意即妙の掛詞から連想して創作された伝説だろう。
史実でないにしても、面白い伝説は語り伝えられる。一方で、和泉式部を雨宿りさせたゴムゴムの(?)シダレグリはいつの頃か枯れて、今は枯木の一部が相生市立歴史民俗資料館に残されているのみである。