4等身といえば、赤ちゃんかアニメのキャラクターである。しかしどうだ、この仙人のような老人は。何とも風格があり、威厳さえ感じられるではないか。いいぞ、4等身。親しみやすさと厳かさを兼ね備えたこの人物とは?
福井市足羽上町の足羽山に「継体天皇石像」が建つ。
この石像、誰かに似ていると思ったら、あのお方だ。明治天皇の英姿である。当然ながら似ているのは4等身のことではなく、面長な尊顔のことである。石像を造ろうとした時、困ったのが継体天皇のお顔である。当然ながら肖像はなく想像するしかない。そこで手がかりとしたのが、当時の天皇、明治大帝であった。
2007年は第26代継体天皇が御即位なさって1500年となる記念の年だった。1500年前すなわち507年に即位したのはこの場所である。生まれは近江だという。ではここ越前は何の関係があるのか。福井市が石に刻む解説を読んでみよう。
継体天皇は御名を男大迹皇子(をほどのみこ)と称し御即位に到るまで数十年間、当国越前に潜龍ましましたが、其間越前平野の治水を講じ、笏谷山の石材採掘を勧めるなど、民治に深く意を用いられたので、国人長く其事蹟を景仰している。この石像は天皇の遺徳を追慕し、明治十六年福井地方の石匠島田・宮崎・谷屋・藤間・林・内山等相謀り之を建立したもので、石材は天皇に所縁のある笏谷石を用い、石像の向は之亦天皇が治水に際して水門を開かれしと傳えられる北北西の三国港を遥かに望んでいる。爾来この山頂に存立して常に市民に親しみ敬われて来たが、昭和二十三年の大震災によって倒壊したので、修復再建したのである。
越前で長くお過ごしになり民を安んじられたことがわかるが、なぜ越前にやってきたのか。男大迹皇子は3歳の時に御父を亡くされ、御母・振姫の出身地である越前で育てられることとなったのだ。
応神天皇5世の孫と言われるが、実際には越前の豪族だったかもしれない。古代日本は万世一系ではなく王朝交代があったという説がある。継体王朝の成立である。新王朝発祥の地が越前だとすると、これほど地域にとって名誉なことはない。古代に新王朝を樹立した大王は、近代国家を樹立した天皇と同じお顔であった。