皇位継承問題は喫緊の課題だが、政府は今年4月19日の立皇嗣の礼終了後に検討を始めると、のんきなことを言っている。女性宮家、女性天皇、女系天皇など議論することは山積しているが、女性皇族方は次々と結婚を考える時期になっている。「ご自分の人生なのですからご自由に…」「皇位継承という国家の大事のためにお力を…」どちらになるにしても早く結論を出さねば、人生設計が立てられない。皇族方のお立場には、下々には想像しがたい覚悟が必要なのだ。
悠仁さまは健やかに成長され、皇位を継ぐにふさわしい資質が育まれていることだろう。上皇陛下や天皇陛下の国民に寄り添う姿勢が、よいロールモデルとなっているのだ。しかしながら皇位継承という国家の大事を、この若者ひとりに、いや将来結婚するであろう女性とのふたりに託すことになる状況は、一刻も早く改めなければならない。特にお后は男児を生まねばならないのだ。そのプレッシャーたるや、いかばかりであろうか。努力によって何とかなる問題ではない。結婚相手が見つかるかどうかも心配なくらいだ。
皇族方が安心して生活のできる環境を一刻も早く整える必要がある。これは国民を代表する政府の責務なのだ。議論のポイントは「血」と「人」である。血統に貴賤などないのが本来だが、皇室への敬慕は、天照大神以来の高貴な血を受け継いでいるというフィクションの上に成立している。「血」は欠かすことのできない重要な要素だ。これを考慮しないと、奈良時代の道鏡事件のような事態になるだろう。
「血」より重要な要素が「人」である。令和の皇位継承を見ても分かるように、現在の皇室に対する国民の人気は絶大である。これもひとえに、上皇上皇后両陛下の慈しみに満ちた御心とご努力、そしてその姿勢を守り継いでいる天皇皇后両陛下あってこそであろう。私たちは、あのようなお人柄に対して敬慕の念を抱くのであって、血統はその前提条件に過ぎない。血統が良くても人柄が伴わない場合には、ネパールのように王朝は滅びてしまうだろう。
世論の多くは「人」を重視して女性天皇や女系天皇を容認しているようだが、一部のウルトラの人々は男系男子にこだわり旧皇族の皇籍復帰を主張している。また、旧皇族男子を愛子さまと結婚させて…、などと戦国時代さながらの政略結婚話もある。さらには旧11宮家だけではなく、江戸時代に皇族が養子に入って相続した公家「皇別摂家」の子孫にも男子はたくさんいる、とも言う。「血」をひいていれば誰でもよいかのような話だ。
長々と持論を述べたが、皇位継承が語られる際によく登場するのが継体天皇である。武烈天皇が継嗣なく崩御し仁徳皇統が絶えてしまった際に、越前から迎え入れた大王だ。応神天皇五世の孫とはいえ血縁は薄い。もしかすると別の血統かもしれない。ただし、先々代の仁賢天皇の娘と結婚しているので、大王家の婿養子となったとみることもできるのだ。
本日は昨今少々話題の継体天皇の陵墓を訪ねることとしよう。
高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)に国指定史跡の「今城塚(いましろづか)古墳」がある。これは宮内庁公認の継体天皇陵ではないので、家族連れの憩いの場となり、二重の濠の外濠にあたる緑地帯では子どもがボールを追いかけていた。
ここまで美しくなると、もはや古い墳墓ではなく公園である。というか、すでに「今城塚古墳公園」として高槻市が管理している。公認の継体陵は隣の茨木市に位置し、宮内庁が厳重に管理している。公園内の説明板を読んでみよう。
今城塚古墳は6世紀前半につくられた巨大前方後円墳です。学術的には継体大王の陵墓といわれ、二重濠をふくむ全長は354m。大王の権威と力を示すモニュメントとして、淀川流域随一の壮大な規模と威容を誇っています。
10年間にわたる発掘調査では、墳丘内部の大規模な石積や排水溝、石室を支えた基盤工、そして200体以上の形象埴輪が並ぶ埴輪祭祀場など、他に例をみない発見が相次ぎました。また、海路を九州熊本から運ばれた馬門石(まかどいし)を含む3種類の巨大な石棺や、金銀で装飾された副葬品などの貴重な出土品がみつかっています。
今城塚が真の継体陵だということは確定しているのだが、だからといって宮内庁が陵墓の指定変更をすると、本当に仁徳陵なのか?神武天皇は実在したのか?など、議論が噴出して収拾がつかなくなるだろう。
大王の陵墓でこれほど詳細に発掘された例はないようだ。圧巻は家や武人、力士、馬、水鳥など189点の形象埴輪で再現した祭祀場だ。歴史が好きであろうとなかろうと、誰もが見ごたえを感じる古墳で、大王の権力を象徴するに実にふさわしい。墳丘を見るため、もっと中に入ってみよう。
出土した石棺の破片は3種類あり、ピンク色が美しい阿蘇の馬門石、二上山の白石、播磨の黄色い竜山石で、いずれも加工しやすい溶結凝灰岩である。各地からお取り寄せできるのが、大王の権力なのだ。平成28年には石棺の一部とみられる大きな馬門石が古墳外で見つかった。発見の決め手はピンク色である。
長さ110センチ、幅66センチ、厚さ25センチの板状の石材は、昭和30年頃まで共同井⼾の洗い場へ渡る橋として使われていたが、野菜などを洗う主婦らが滑ってけがをすることがたびたびあったという。「古墳の⽯を踏みつけているたたりでは」などと恐れられたので撤去し、その後お寺で祀っていたものである。
同じ石かどうか定かでないが、大阪府『大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告』第1輯(昭和5)には、次のような記述がある。
今城塚の中に嘗て畳一枚大の巨石あり。夜泣石といふ。高槻藩主永井侯採って城中に移したるに、夜々泣いて旧地に復帰せんことを訴ふ。故に再び塚内に移されたりといふ俗説を伝へり。近頃迄前方部の一隅に横はりしが、今は同地方某氏の家に移されたり。某氏の家は其已後主人非命に倒れしことありて、村人中には之を石の祟なりと称するものあり。
公的な報告書にもかかわらず、ホラーな伝説を掲載しているところが面白い。二つの話を続けると巨石は、古墳→城中(泣く)→古墳→某氏宅(不幸)→橋(滑る)→寺→歴史館、と流転していることになる。だが、報告書掲載の夜泣き石や祟り石の話は各地にあるし、将門の首塚をめぐる怨霊伝説を思わせるような感じもあって、どこまでが本当なのか分からない。
歴史としては、石材が阿蘇産出であることに意味がある。継体大王は528年、九州で起きた磐井の乱を鎮圧したが、この出来事と石材はどう関係しているのだろうか。石材の提供などを強制させられたことに不満を抱いた磐井が反乱を起こしたのか、磐井が倒され服属した九州勢が献上したのか。
いずれにしろ、乱を鎮定するとともに大規模な墳墓を築造した継体大王が、強大な権力を確立したことに疑いはない。その権威の源泉は「血」ではなく、やはり「人」に由来するものと考えるのが妥当だろう。