5月6日に茨城県つくば市付近で発生した竜巻によって大きな被害が発生した。藤田スケールという耳慣れない尺度でF3だという。気象庁もさらに観測の精度を上げていくよう努力するのだろうが、頼りになるのが気象ドップラーレーダーである。
八尾市大字服部川に「高安山気象レーダー観測所」がある。ここもドップラーレーダーである。救急車のサイレンが近づく時と遠ざかる時とでは聞こえ方が違うのをドップラー効果というが、近づく風と遠ざかる風を観測することで竜巻の可能性を知ることができるのだそうだ。
気象の話がしたいわけではない。レーダーの足元にある「高安城跡」を示す石碑に注目したい。このあたり一帯が古代山城、高安城(たかやすのき)である。まずは文献で確かめよう。『日本書紀』巻第二十七(新編日本古典文学全集4、小学館)から関連する記事を抜粋する。
天智天皇6年(667)11月
是の月に、倭国(やまとのくに)の高安城(たかやすのき)、讃吉国山田郡の屋島城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築(つ)く。
天智天皇8年(669)8月3日
秋八月の丁未(ていび)の朔にして己酉(きいう)に、天皇、高安嶺(たかやすのみね)に登りまし、議(はか)りて城(き)を修(おさ)めむと欲(おもほ)すも、仍(なほ)し、民の疲れむことを恤(めぐ)みたまひ、止(や)めて作りたまはず。時人(ときのひと)感(かま)けて歎(ほ)めて曰(いは)く、「寔(まこと)に乃(すなは)ち仁愛(めぐみうつくしび)の徳(とく)、亦(また)寛(ゆた)かならざらむや」と、云々(しかしか)いふ。
天智天皇8年(669)是冬
是の冬に、高安城を修(つく)りて、畿内(うちつくに)の田税(たちから)を収む。
天智天皇9年(670)2月
又、高安城を修り、殻(もみ)と塩とを積む。
天武天皇元年(672)7月1日
是の日に、坂本臣財(さかもとのおみたから)等、平石野(ひらいしのの)に次(やど)れり。時に、近江軍(あふみのいくさ)、高安城に在りと聞きて登(た)つ。乃(すなわ)ち近江軍、財等が来るを知りて、悉(ことごとく)に税倉(ちからくら)を焚(や)き、皆(みな)散(あら)け亡(う)せぬ。仍(よ)りて城中(きのうち)に宿る。
天武天皇4年(675)2月23日
丁酉に、天皇、高安城に幸(いでま)す。
持統天皇3年(689)10月11日
冬十月の庚戌の朔にして庚申に、天皇、高安城に幸(いでま)す。
また、『続日本紀』巻一、巻二、巻五(早稲田大学古典籍総合データベースより書下し)には次のように記録されている。
文武天皇2年(698)8月
丁未、高安ノ城ヲ修理ス
文武天皇3年(699)9月
丙寅、高安ノ城ヲ修理ス
大宝元年(701)8月
丙寅、高安ノ城ヲ廃シ、其ノ舎屋、雑ノ儲物ハ、大倭河内二国ニ移シ貯フ
和銅5年(712)正月
壬申、河内ノ国高安ノ烽ヲ廃メ、始テ高見ノ烽及ビ大倭ノ国春日ノ烽ヲ置キ、以テ平城ニ通ゼシム
和銅5年(712)8月
庚申、高安ノ城ニ行幸ス
白村江の戦での大敗は我が国の歴史を大きく動かした。唐や新羅の報復を恐れた朝廷は、九州、瀬戸内など想定侵攻ルート上に山城を築く。高安城は河内と大和の境に位置しており、中枢部防衛最後の砦としての機能を期待されていた。
この写真はレーダーから北方2.5kmくらいにある水呑地蔵尊からの展望だが、高安城からも同様な眺望が得られただろう。大阪湾から侵入する外敵の動きを見て取れる。しかも高安山の大阪側は急峻で有効な防衛障壁となりうる。西信貴ケーブルに乗るとそれがよく分かる。
先に引用した『日本書紀』の記述によれば、天智、天武、持統の三代の帝は自ら高安城にお出でになり、次代の文武帝も城の維持に努めている。天智帝は城に登り修理を加えようとしたが、民のかまどから煙の立たぬのが見えたのだろうか、これを中止した。人々は、なんと仁愛深きお方でいらっしゃることよ、と感動した。
天智天皇8年(669)是歳条と10年(671)11月癸卯条には、唐の使者、郭務悰等二千人がやってきたとの記事が見える。同内容が重複して書かれたとされるが、この時期に唐は我が国の様子を探っていたに違いない。668年に唐は高句麗を滅ぼしている。とすれば、高安城を修築して我が国が国防を推進していることを印象づけようとしたのだろう。
天皇も視察する重要な防衛拠点だけに、米や塩などの備蓄も行われたが、壬申の乱の際に倉が焼かれている。奈良県生駒郡平群町大字久安寺に「高安城址倉庫礎石群」がある。
この遺跡は昭和53年に高安城を探る会が発見したものだが、後の調査によって720~730年代のものと判明した。しかしこの時期の『続紀』の記事には登場しない。高安城は701年に廃止されているのだ。記事への登場は712年が最後となる。
699年に修理が施された高安城が701年には廃止となる。そこには何らかの外交方針の転換があったのかもしれない。『続日本紀』巻一の大宝元年(701)正月丁酉条に、粟田真人を遣唐執節使に任命したことが記されている。本格的な遣唐使が復活したのだ。高安城の廃城は8月のことだ。軍縮の姿勢をアピールして外交姿勢を唐に評価してもらおうとしたものか、遣唐使の費用を捻出するためだったのか。
高安城が廃止されてからも烽火台の機能は存続したようで、その廃止の記事が712年に登場する。平城遷都に伴い通信ルートが改められたのである。
上の写真は高安山の頂上で二等三角点(基準点名:峰山)が置かれている。487.4mだそうだ。ここに烽火台があったと考えるのが自然だろう。
今はハイキングコースとして親しまれている高安山。7世紀後半には、中国が日本に侵攻してきた際に、本土決戦最後の砦として重要視されていた。危急を知らせる烽火もなくなってしまったが、今は気象面で日本を守る重要任務を遂行している。大阪府が設置した「高安山気象レーダー」の説明板の一部を読んでみよう。
特に、室戸岬にあるレーダーとの連係により、紀伊水道を北上する台風、前線活動による集中豪雨、雷雨などを観測することを目的とし、京阪神地方の自然災害に対する防人(さきもり)としての任務を果たしています。
防人は古代の九州に置かれた兵士かと思ったら、先端技術により私たちの生活を守る心強い気象レーダーのことであった。