黒田熊之助という名はあまり聞かないが、大河ドラマに登場した歴史上の人物である。『軍師官兵衛』45話「秀吉の最期」の冒頭で、その悲劇的な死が描かれた。父官兵衛や兄長政に認められたい一心で朝鮮に渡ろうとし、遭難したのである。
その熊之助ゆかりの地が播磨にあるというので、中国道を走り現地に向かった。
宍粟市山崎町門前の弁天池前に「黒田官兵衛飛躍の地」と刻まれた堂々たる石碑と「黒田熊之助ゆかりの地」という少々控えめな碑がある。
平成26年は大河「軍師官兵衛」の放映があり、出身地播磨は官兵衛ブームに沸いた。二つの石碑も新しいので、そうかなと思えばやはりそうだった。
平成二十六年放送の大河ドラマ「軍師官兵衛」には、天正七年(一五八〇)に播磨を平定した羽柴秀吉から、黒田官兵衛に恩賞として封じられた「宍粟郡山崎の城」が登場しました。ここ宍粟の地は、官兵衛が初めて領主となった地であり、後に九州で五十二万石の領主に昇りつめるまさに飛躍の地でした。
平成三十年三月
徳川家光は「生まれながらの将軍」と豪語したようだが、官兵衛は生まれながらの大名ではない。才能と努力と運で地位を築き上げる人生だった。その足掛かりとしたのが山崎の地である。『軍師官兵衛』32話「さらば、父よ!」で官兵衛に新領地が与えられたことが紹介され、長男長政が人心の掌握に苦労する場面が描かれた。上記説明文中の天正七年は八年の誤りで、史実としては十二年のことらしい。大河は史実との整合性を重視し、小牧・長久手の戦い後の場面として放映した。
播磨山崎と黒田家との関係については、熊之助の石碑に刻まれた説明文がいちばん分かりやすい。
古来、宍粟郡山崎の地は、南北は山陽と山陰、東西は近畿地方と中国地方の交通の結節点として重要な位置を占めてきました。とりわけ戦国時代末期にあっては、東からの織田信長、羽柴秀吉の勢力と、中国地方の毛利氏の勢力が対峙した地域でした。
宍粟郡周辺を治めていた宇野政頼・祐清父子は、最後まで秀吉勢に抵抗しましたが、天正八年(一五八〇)、秀吉の軍勢の攻撃によって長水城、篠ノ丸城はついに落城することとなりました。天正十二年(一五八四)黒田官兵衛孝高が秀吉より「宍粟郡一職」(黒田家文書)を与えられ、後の黒田家隆盛への「飛躍の地」となりました。
黒田孝高の子息には、福岡藩初代藩主となった黒田長政がいましたが、福岡藩が編さんした「黒田家譜」によれば、天正十年(一五八二)に「次男熊之助生る」と記されています。
また、黒田家の菩提寺である福岡市の崇福寺にある「黒田熊之助碑」には、「黒田熊之助君孝高公次子、而長政公同母弟也、天正十年、生于播磨山崎城」と刻まれており、熊之助の山崎生誕説を裏づけるものとなっています。碑文は、福岡黒田家十三代黒田長成侯の起草になるものであり、「播磨の山崎城に生る」とあるのも「黒田家譜」を典拠としたものとみられます。
黒田熊之助については、若くして亡くなったといわれ、謎の部分も多くありますが、ここに黒田氏と山崎の地を結ぶ縁を刻し、記念碑を建立します。
平成二十九年十月吉日
宍粟市商工会十周年記念事業特別委員会
熊之助の誕生に関しては『軍師官兵衛』25話「栄華の極み」に、光が官兵衛に懐妊を告げる場面があった。天正九年の設定だからこれも史実に沿っている。そうすると熊之助は「黒田熊之助碑」が示す播磨山崎ではなく、姫路生まれだろう。そういえば石碑の銘は「熊之助生誕の地」ではなく「ゆかりの地」であった。大臣や官僚が得意な、間違いではない絶妙な言い回しだ。
よく勉強した後は、身体を鍛えるために城に登ることにしよう。登城路は整備されているものの、つづら折りでけっこうな距離がある。
宍粟市山崎町門前に「篠ノ丸城址」の石碑がある。
登っている途中では想像もつかないくらいに頂上が広い。詳しい説明板があるので読んでみよう。
篠ノ丸城址
【所在地】宍粟市山崎町横須
赤松一族の西播磨守護代宇野氏は、宍粟郡広瀬(山崎町中心部)に居館を置いた。その背後の山上に築かれた城が篠ノ丸城である。『赤松家播備作城記』は、南北朝期に赤松貞範の長男顕則が初めて当城を築いたとする。
城は、北西から延びる山塊の東端(篠山、標高三二四メートル)に長方形の主郭(東西四○メートル、南北五○メートル)を置く。主郭は、南西側に土塁と堀を備え、現状では南側の土塁中央が開口し「出入り口」となっている。
主郭西側の尾根上には南北両側を通路に取り囲まれた方形郭が連なり、尾根西端を三重の堀切で遮断している。主郭から北側へも尾根上に二列の方形郭を段々に連ね、その東西両側に通路を設けている。
当城の最大の特徴は、北端の出入り口から西端三重堀切の間の傾斜の緩やかな北側斜面が、畝状竪堀群で覆い尽くされていることである。竪堀群の上には横堀、土塁、通路が対応して城の北西面の守りを固めており他に類例を見ない仕様となっている。このような竪堀群は本城の長水城には見られない一方で、篠ノ丸城では長水城のような石垣の使用は確認されていない。
戦国期には宇野政頼の嫡男満景が城主となったが、天正二年(一五七四)、父子の不和から政頼は満景を廃嫡し殺害したと伝わる。その後、家臣の内海左兵衛が城代となったが、天正八年(一五八〇)羽柴秀吉の攻撃により長水城と共に落城した。
黒田家の正史『黒田家譜』は宇野氏滅亡後に黒田官兵衛が「山崎の城」に居城したと記しており、これを篠ノ丸城にあてる説がある。確実な史料から官兵衛が宍粟を領有するのは、天正十二年(一五八四)七月のことで、同十五年(一五八七)七月に豊前へ移封となるまでこの地を治めた。
なお、江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』には「役人・奉行、当地に居住といへり」とあり、平素は多忙な官兵衛にかわり代官が在城していたと考えられる。
参考文献 兵庫県教育委員会編集『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか
山崎の城といえば篠ノ丸城だから、おそらく官兵衛に与えられた城だったろう。ただし官兵衛がこの城でリラックスする暇はなく、四国攻めや九州征伐に忙殺されていた。せめて光が熊之助とともにここで暮らしていたなら「ゆかりの地」が確かとなるであろうに。
説明板には航空レーザー測量で作成した赤色立体地図が掲載され、レーザーが捉えた畝状竪堀群を確認することができる。その実際を見に斜面を下りてみよう。
山城の防御施設は戦国末期に急激に技巧的な進歩を遂げるが、その一つが畝状竪堀群である。寄せ手の行動を制約し、守り手からは見えやすくする。木々に埋もれて見えなかった畝のような竪堀が最新技術で明らかにされた。
頂上からはさすがの眺望である。山崎の中心部から谷が十字のように山地に切り込み、東西、南北の交通路となっている。熊之助もこの眺めを見ながら育ったのか。本当に山崎にゆかりがあるのかないのか。
典拠となった『黒田家譜』は17世紀末に『養生訓』の貝原益軒の手で完成した。益軒先生には申し訳ないが、現在の史学水準からは誤りが散見されるそうだ。そりゃそうだ。天正年間の目まぐるしい動きの中で、熊之助が山崎で生まれようが姫路で生まれようが、九州北部の太守黒田家の栄光にいささかの影響もない。細かいことを気にしないというのは長生きの秘訣なのかもしれない。