後藤又兵衛は日本史のゴールデンタイムに生きた武将だから、大河ドラマにしばしば登場する。『軍師官兵衛』では塚本高史、『真田丸』では哀川翔が演じた。両者を比較する向きがあるが、単純には比べられない。演じたのが人生の若き日かクライマックスかの違いがあるため、テイストが異なるのは当然だろう。
又兵衛は名族後藤氏の中でもっとも有名な武将である。播磨後藤氏の出身で、同族には肥前後藤氏、美作後藤氏がある。本日は美作後藤氏の居城をレポートする。
美作市明見(みょうけん)に「三星城跡」がある。三つの峰が特徴的なこの山は三星山と呼ばれる。妙見信仰は星との関連があるから、明見と三星にも一体感が感じられて素敵だ。
真ん中に「美」文字が夜空に浮かび上がるような仕掛けがある。京の大文字焼と似ているが、たいまつではなく電灯だ。最初は「天」だったようだが、美作国建国1300年を記念して「美」になったようだ。次に改修する際には「☆」はどうだろうか。
頂上には四等三角点「三星山」があり、標高233.2mである。眺望が抜群で、東西からの動きに対処することが容易である。城としては「二の丸」と呼ばれる。
二の丸の東の峰が「一の丸」、西の峰が「三の丸」である。一の丸と二の丸の間の下に「岩井戸」があり、今も水を湛えている。
堅固なこの城には落城悲話が伝わる。居館のあった本丸の奥に「城主後藤勝基の墓」がある。美作後藤氏は勝基の時に最盛期を迎え、宇喜多直家と対決し滅びることとなる。肥前後藤氏は戦国大名龍造寺氏に敗れ、佐賀藩主鍋島氏に従いながらも、その系譜を維持することができた。美作後藤氏も運さえよければ生き残ることができただろう。
軍記『三星軍伝記』によれば、後藤康基が足利尊氏から美作国勝田南郡の地頭職を賜ったのが観応二年(1351)のことだという。その後着実に地歩を固め、作東の有力国人に成長した。この地域は山名氏、赤松氏、尼子氏の草刈り場となったから、後藤氏も去就の見極めに苦慮したことだろう。
後藤勝基は尼子氏から当時成長株だった浦上氏に乗り換え、浦上氏重臣だった宇喜多直家の娘を妻とした。津山市二宮の美和山城を落としたと伝えられているから、西部にも勢力を拡大し戦国大名への道を歩み始めていた。
ところが直家が下剋上により戦国大名化すると、後藤氏は対立を深めていく。そして天正七年(1579)の三星合戦を迎えることとなる。進退窮まった勝基の言葉である。『三星軍伝記』「勝基諸士へ暇を賜り東の丸酒宴の事」より
「永く籠城深切不浅、礼は詞に尽し難く、当家の運つきて当城を保つ事今日限りと覚え候。此上は各の存意に任せ、何れ成とも身を片付け、家名相続の謀略を計らひ給へ。」
「外様の諸将は最早当城へ帰り給ふ事なかれ。譜代重恩の者、我先途見届けんと思ふ者は格別也。」
「予が一生の晴軍なれば、いさぎよき合戦して討死すべし。各も予が追善と思ひ給はゞ、敵の勇士をなやまして開き給へ。」
勝基は城を退去して自害。美作後藤氏の終焉である。宇喜多氏は美作に勢力を拡大し、毛利氏と激しく対立するようになる。後藤勝基は日本史のゴールデンタイムに生き残ることができなかったが、宇喜多直家は時々ドラマに登場する。『軍師官兵衛』では陣内孝則が悪そうな策士を演じていた。
勝基は直家との対立が深まってから、織田信長に和議の斡旋を申し入れるとともに、毛利氏とも連絡を取っていた。生き残りをかけて、可能な限りの手を尽くしたのである。今の私たちがコロナと闘っているように。