うちの近くの田んぼでは、冬によく「わらぐろ」を見かけたものだ。わらを乾燥貯蔵するための三角帽子のわら積みである。雨にびしょ濡れになって乾燥できるのかと思ったら、雨水は中に染み込まないのだそうだ。
わらは藁だが、ぐろとはなにか。アーカイブスを調べてみると「足の神様となった戦国武将(八浜合戦・下)」で藁ぐろに身を隠した武将、「旅の途上で亡くなった寵妃」で女院塚を女院ぐろとも呼ぶことを紹介していた。
ぐろという読みは連濁しているためで、もともとは「くろ」。漢字では「𡉕」と書く。土が丸くなっているとか、藁を積み重ねたとか、こんもりした形を意味するのだろう。そういえば古墳もこんもりしている。
総社市秦(はだ)に県指定史跡の「一丁ぐろ古墳」がある。全長約70mの前方後方墳で、写真は後方部から前方部を眺めている。高い場所にあるから見晴らしもよい。
尾根続きにはこんもりとした塚が点在し、それぞれに番号が付されている。ここは大きな古墳群で「一丁𡉕古墳群(いっちょうぐろこふんぐん)」と呼ばれている。巨大な前方後方墳は1号墳である。説明板を読んでみよう。
一丁𡉕古墳群由緒
一丁𡉕古墳群の存在は以前から知られていたが、平成二十二年度の植林事業をきっかけに再確認され、一~四号墳については平成二十三年六月二十三日、総社市史跡に指定された。その後、総社市教育委員会の調査により、現在三三基が発見されている。
なお、これら一丁𡉕古墳群のうち十三号墳及び三一号墳は、円墳、その他は方墳とみられる。
一号墳は、標高一八九メートルの急峻な尾根上にあり、発掘された埴輪などから、四世紀前半に築造された前方後方墳であることが判明した。墳長は全長七〇メートル以上、斜面に葺石がめぐらされている。埋葬施設は、蓋石らしき石材が墳頂の祠(まつり、雨乞い)に用いられていることなどから、竪穴式石槨(室)の可能性がある。
当古墳群では、断続的ではあるが四世紀前半から七世紀後半まで幅広い時期の古墳が築かれており、実に四〇〇年近く丘陵が墓域として利用されたようである。周辺も含めると、六〇基程の古墳が築かれており、有力者の墓である秦上沼古墳、金子石塔塚古墳、秦大𡉕古墳、茶臼嶽古墳などの存在も併せて、地域史上重要視されるものである。
平成二十七年一月
秦歴史遺産保存協議会
1号墳は古墳時代前期に築造され、前方後方墳としては県北の植月寺山古墳に次ぐ大きさを誇る。特殊器台型埴輪の出土は総社市域で初めてだそうだ。古墳群のほとんどが方墳である。墳形に方形が目立つのは、一族の結束を意味しているのか、特別な地位を意味しているのか。
1号墳が県の史跡に指定されたのは平成28年2月5日で、それ以前は1~4号墳が市の史跡であった。1号墳から北へ進み、順に見学することにしよう。
「2号墳」は17m×16mの方墳と表示されているが、発掘報告書『総社市埋蔵文化財発掘調査報告23一丁𡉕古墳群 市指定史跡古墳確認調査』によれば、円墳らしい。
「3号墳」は10m×11.5mの方墳と表示されているが、発掘報告書によれば、古墳である具体的な証拠はないそうだ。
「4号墳」は17m×15mの方墳と表示されており、馬形や人物形などの形象埴輪が出土したそうだ。人物は左腕を上方に掲げる格好をしている。いったい何を意味しているのか。
4号墳から尾根に沿って古墳群をしばらく進むと、「茶臼嶽(ちゃうすだけ)古墳」にたどりつく。
これも大きな前方後方墳である。説明板を読んでみよう。
茶臼嶽古墳由緒
茶臼嶽古墳は荒平山茶臼嶽の標高一九二メートルの尾根に位置しており、墳丘の頂上には江戸時代より石鎚大権現が祀られています。
二〇一四年(平成二十六年)三月、秦歴史遺産保存協議会会員が古墳の可能性があるのではないかと総社市教育委員会に調査を依頼し、同市により調査が行われました。
調査の結果、当古墳は全長約六五メートルの前方後方墳であることや、墳丘には葺石がふかれていたこと、出土した土器の年代等から古墳時代前期初頭(三世紀末)ごろに築造されたことが明らかとなりました。茶臼嶽古墳の近隣には一丁𡉕一号墳(四世紀初頭、全長約七〇メートル)や秦大𡉕古墳(四世紀後半、全長六二・五メートル)などが築かれています。その中でも茶臼嶽古墳は当地域を治めた最初の首長の古墳といえます。
平成三十年六月
秦歴史遺産保存協議会
茶臼嶽が初代で一丁𡉕が二代目、古墳群はその子孫ということだろうか。方形をアイデンティティとした一族が秦地域を治めていたのだろう。山上の古墳群は地域の守り神のような役割があったのかもしれない。
現代の墓地には慕塔が林立している。よく見かける角石形のお墓が普及し始めるのは江戸時代中期だそうだ。一丁𡉕古墳群の400年近い歴史にはまだ及ばない。かつて、葬式の規模が家のステータスを表していたが、コロナ禍ですっかり家族葬が定着してしまった。墓地の維持管理もけっこう大変で、墓じまいを考える人も多いと聞く。いまの墓制はいつまで続き、今後どのように変化していくのであろうか。