明日、大河『鎌倉殿の13人』が全48話の最終回を迎える。『吾妻鏡』などの史料をもとに、忠実あるいはかなりデフォルメして史実を再現しており、とても楽しませてもらった。
三代将軍実朝の暗殺後、上皇は鎌倉が以前から望んでいた親王下向について「雅成親王と頼仁親王のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない。」と言った。
このことは大河『鎌倉殿の13人』第46回でも描かれた。
「話が戻っておりますな」「私を怒らせるつもりのようだ」「こちらから断るのを待っておるのかもしれませんな」
北条義時と大江広元は上皇の手の内を読んだ。
出典は『吾妻鏡』建保七年(1219)閏二月十二日条である。読んでみよう。
〔十〕二日。〔戊寅〕信濃前司行光使者参著。彼宮御下向事。今月一日達天聴於仙洞。有其沙汰。両所中。一所。必可令下向給。但非当時事之由。
頼仁親王については以前の記事「バス停が伝える親王の御名」で配所の御陵を紹介した。上皇陛下は隠岐へ、頼仁さまは備前へ流されたのである。兄の雅成さまはどうなったのでせう。
豊岡市高屋に「後鳥羽天皇皇子 雅成親王墓」がある。
宮内庁が管理する厳かで端正な宝篋印塔である。大河ドラマを見て親王のお墓を訪れる人も多くなったかもしれない。もしかすると鎌倉殿として別の人生を歩んだかもしれない。ただ、それが幸せだったかどうかは分からない。なにせ粛清の嵐が吹き荒れる鎌倉である。上皇が親王下向に慎重になるのも当然だろう。説明板を読んでみよう。
雅成親王の御墓(宮内庁所管)
雅成親王は後鳥羽天皇の第四皇子で土御門、順徳、両天皇の皇弟にあたられ、六条の宮様とも申し上げた方であります。親王二十二歳の承久三年後鳥羽上皇の討幕の挙(承久の変という)ありましたが、戦い利あらず、遂に上皇方は敗北され、敵方の大将北条泰時により、父君上皇は隠岐に親王は高屋の地に配流となったのであります。
親王は黒木の御所で三十年間灰色の日々を送られていましたが、建長七年(一二五五年)二月十日この地で五十七歳の生涯を終られたのであります。
御墓はこの石段を登ったところにあります。
なお親王の配所であった黒木の御所の跡を示す碑が墓所の南前現在高屋厚生年金住宅の横に建てられています。
お墓参りができたので、黒木御所にも行ってみよう。黒木御所は順徳上皇が流された佐渡、後醍醐天皇が流された隠岐にもある。皮を削っていない木材で建てられた仮宮だから「黒木」と呼ばれている。
住宅団地の向こう側に「黒木御所跡」がある。
石碑は団地の開発に伴って昭和36年に建てられた。碑には次のように刻まれている。
後鳥羽上皇第四皇子承久三年の乱にこの地に御配流となり、以来風月を友とし生涯を終えられしという
「三十年間灰色の日々」だとか「以来風月を友とし」だとか、配所の月を眺める侘び住まいであったかのようだ。ところが史料を漁ると、また別の姿が見えてくる。藤原定家『明月記』嘉禄二年(1226)十月十一日条には、次のように記されている。
十一日、天晴、雑人説云、六条宮御出家着黒衣、儲大桧笠、成迯去之計給、武士見之奉籠、依此事、京中黒衣法師可停止由、武家致沙汰云々、
巷の噂では、六条宮が出家し黒衣に網代笠という姿で逃げようとしたという。武士が発見して連れ戻した。このことにより、京の街中での黒衣着用が武家によって禁じられた。ところが、平経高『平戸記』寛元二年(1244)七月二十四日条には、次のように記されている。
予逐電参修明門院、六条宮自去廿日御参住云々、仍為入見参所参也、先謁女房(別当局)、談話、不経程出御、依召参御前、良久有御物語、秉燭帰蓽、
私は急ぎ修明門院さまのお屋敷へ参りました。というのも六条宮さまが二十日からお住いになっているとうかがい、お目にかかろうと参ったのでございます。トップ女房と話をしながら待っていると、ほどなく宮さまがお出ましになられました。御前に召され、しばらくの間語らい合い、夕方に帰宅しました。
六条宮とは雅成親王、修明門院(しゅめいもんいん)は生母の藤原重子で、順徳天皇の母でもある。順徳は仁治三年(1242)に崩御しているから、失意の底にあった重子の力になろうと六条宮が移り住んだのかもしれない。親子だから一緒に暮らして当然だが、親王が京にいるという事実に驚かされる。いつの間に還っていたのか。脱出したのか赦免されたのか。
さらに調べると、記録集『百錬抄』建長七年(1255)二月十日条に次のような記述があることが分かった。
十日丁丑。但馬宮(雅成親王。後鳥羽院皇子。)於配所(但馬国。)令入滅給。
雅成親王が配所の但馬で亡くなっている。寛元四年(1246)の宮騒動に絡んで、再度配流されたのではと言われている。なかなかの波瀾万丈、風月を友とする侘び住まいではなさそうだ。
生母の修明門院はその後も長生きして、文永元年(1264)に亡くなる。この年、伊賀の方(のえ=菊地凛子)が産み、跡継ぎにと熱望した政村(新原泰佑)が執権に就任した。あれから、ずいぶんの年月が経った。もう数年で蒙古牒状が届き、日本開闢以来の激動の時代を迎えることとなる。鎌倉時代に心休まる時間はあったのだろうか。