ロシアはトルトネフ副首相は6月10日、「北方四島周辺の日本の漁業権は取り上げられるだろう」と述べた。ロシアの好意で魚を獲らせてもらっている我が国は、スケトウダラ、ホッケ、タコなど約2200トンに対して、協力金を2130万円支払うこととしている。これが「我が国固有の領土」の実態なのだが、それさえもできなくするというのだろう。
本日は漁場争いの話をする。そこには地域が誇る名勝があり、争いに深く関わっている。また解決時に建てられた石碑にも、高い価値がある。説明板はないが、美しい文字が深く刻まれているので読みやすい。
加東市上滝野に漁場争いの裁定内容を示した石碑が建てられている。
闘龍灘という奇岩奇勝の地が漁場というのはどういうことか。ここは鮎漁の名所で、筧(かけひ)どりという独特の漁法が江戸時代から続いている。近くの旅館では今の時季、豪華な鮎づくし会席をいただくことができる。石碑には次のように刻まれている。
於民部省御治定 従前之通 西岸ヨリ東岸マデ 上瀧野村漁場
明治三年庚午九月 姫路藩廳
漁場争いの当事者は上滝野村と対岸の多井田(おいだ)村。同じ加古川に面しながら、両者の立場は大きく異なる。上滝野村が加古川舟運の拠点として賑わったのに対して、多井田村には船着場がなかった。
多井田村の人々は上流からの筏の解体・組みなおしに従事する者が多かった。というのも、筏の通過を闘龍灘が阻んでいたからだ。作業を終えた人々は、目の前を跳ねる鮎を持ち帰ったのだろう。川はみんなのものだ。
これにクレームをつけたのが上滝野村だった。このように証拠書類はございますと漁場の占有を証明してみせたのだろう。民部省はこれを認め、姫路藩庁が公示する石碑を建てた。上滝野村は誇らしく思ったことだろうが、多井田村の人々の心中いかばかりであったか。
この石碑の希少性は「民部省」と「姫路藩」にもある。民部省は明治二年七月に設置された中央官庁で、土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。部署の一つに「聴訴掛」がある。おそらくここが漁場争いの「治定」をしたのだろう。同四年七月に民部省は廃止された。
姫路藩は江戸時代を通じて存在したように思われているが、「藩」という行政単位が公式に存在したのは、明治元年閏四月の政体書公布による府藩県三治制から同四年七月の廃藩置県までである。江戸時代の高札ならば、年月日の次に示される発行者名は「奉行」であった。ここでは姫路藩の行政を掌る藩庁が、漁場の占有権を公示している。
つまり、この石碑には、明治初期にわずかな期間しか存在しなかった行政機関名が二つも刻まれている、という希少性があるのだ。国の決定を地方が知らしめる。中央集権国家の黎明期であった。