遣唐使が白紙に戻されてから我が国は鎖国状態となり、独自の文化の形成が進んだ。これを国風文化という。これは正しい理解とは言えないようだ。遣唐使が停止され唐が滅亡してからも、中国との往来は活発に行われた。
唐滅亡後は五代十国の時代となるが、今の杭州のあたりに呉越という国があった。東シナ海を挟んだ隣国だからか、承平六年(936)に我が国に使者を派遣してきた。『日本紀略』には次のように記されている。
(承平六年)九月□日。大唐呉越州人蒋烝勲来。献羊数頭。(承平七年)八月二日。左大臣(忠平)賜書状於大唐呉越王。
ヒツジがやってきた。書状のやりとりも行われた。天暦七年(953)、右大臣藤原師輔は菅原文時に起草させ、次のような書状を呉越公(呉越王)に出している。原文は『本朝文粋』巻之七に収録されているが、ここでは柿村重松註『本朝文粋註釈』上冊(内外出版、大正11)に掲載されている意訳を紹介しよう。
蒋烝勲来りて芳書を投げ与へぬ。万里の海波を隔てたる遠方より封の書を以て思召を伝へられ、且つ恵むに珍品を以てせらる。一たびは歓び一たびは懼れて心中安らかならず。蓋し国外に交を結ぶは人臣の道にあらず、錦綺珍貨を受くるは国法に反くを如何にとかする。されど叢竹の色に変らぬ志のほどをあらはし、旃檀の香に美しき徳の馨ばしさを思はしむ。之を受くれば法律に反くと雖も、之を辞すれば芳情を厭ふと謂はれん。故に強ひて受領しぬ。是れ君子仁に親しむの義に感じてなり。今微情を述べて聊か荅書を奉り、且つ粗品を贈呈す。到達せば願はくは検領せられよ。
この手紙を受け取ったのは、呉越王銭弘俶(せんこうしゅく)であった。この王は信仰心が篤く、青銅製の小塔をたくさん造らせた。「銭弘俶八万四千塔」と呼ばれ、我が国にも12点が伝わっている。八万四千というとてつもない数値は仏教では多数を意味し、称徳天皇の百万塔陀羅尼と同じ発想で、たくさんの小塔を造ることが功徳となるとの考えに基づいている。
中世の石造物で知られる「宝篋印塔」は、「銭弘俶八万四千塔」を模したものだといわれる。大きさは違えど、確かに特徴ある形はそっくりだ。本日は、かなり風化の進んだ宝篋印塔を一つ紹介しよう。
岡山市北区御津高津(大谷)に「大谷宝篋印塔」がある。旧御津町指定重要文化財である。
かなり傷んでいるので、現在は文化財指定はされてないようだ。昭和60年発行の『御津町史』にも写真が掲載されているが、相輪部が異なっているようだ。確かに現在のは短すぎる。説明板を読んでみよう。
御津町指定重要文化財
大谷宝篋印塔
宝篋印塔は、平安時代末ごろに中国から伝わった小塔を原型として、鎌倉時代中ごろから武将らの墓塔、供養塔として盛んに建てられました。基本的な形は基壇・基礎・塔身・笠・相輪を積み上げたものです。笠の四隅に隅飾突起があるのが特色です。本来は塔身の中に宝篋陀羅尼経を納めたことからこの名が出ました。
大谷宝篋印塔は高さ一・五五mで、石灰岩製のため風化が進み、細部の彫刻もわからなくなっています。各部の特徴から室町時代に建てられたもののようです。
御津町文化財保護委員会 御津町教育委員会
「中国から伝わった小塔」とは「銭弘俶八万四千塔」のことだろう。塔の特徴である隅飾突起は摩滅しているが、石仏は今も瞑目し世の喧騒を遠くに聞いている。我が国と誼を通じた呉越王の祈りの末流をここに見ることができる。